壬生義士伝異聞

本年1月、『壬生義士伝』は第四章「斎藤一編」完結! しかし実は、本サイトで引き続き第五章「大野千秋編」へと、このまま一気に連載継続…とはいかない事情があるのです。 以前に本サイトのコラム「ながやす流漫画術」でもお伝えしましたが、『壬生義士伝』をはじめ、ながやす巧先生の手により生み出される迫真の画稿の数々は、先生独自の漫画術で生み出され、アシスタントを使わない執筆手法により、いささか時間を頂く必要があります。
現在の執筆状況や今後のサイトアップ予定等の情報も本サイトで随時お伝えしますが、ついでにちょっと幕間を利用して『壬生義士伝』の世界にまつわる、少し変わった史実伝聞、不思議なエピソード(!?)などなど、お伝えすることにしましょう。これをチェックすれば『壬生義士伝』は10倍面白くなる! かどうかは、保証できませんけど…。

メインカット

第6回
勤皇のサバク

新選組は(結成当初は単なる幕府の臨時雇いの浪人集団だったけど、のちに)れっきとした会津藩お預かりの身になった以上、バリバリの「佐幕」派。だから「尊王攘夷」を掲げた勤皇の志士は天敵。というわけで、京都守護職の別働部隊としては、京の町で長州をはじめとする不逞志士浪士たちを…彼らからしてみれば草莽の臣、「勤皇の志士」なんだけど…バッタバッタと斬りまくってた、というイメージが未だに(?)強いワケです。

負け組は「反天皇派」認定!

けどそれじゃ「佐幕派」つまり「幕府シンパ」組の連中は「勤皇」を目の敵にしてたの?…つまり帝を目の敵にしてたのかと聞かれればもちろん、答えはノー!
そもそも当時の帝(孝明天皇)が、京都守護職の会津藩主・松平容保を篤く信頼してたのは有名な話だし、ついでにいえばこの京都守護職という役職そのものが(のちに倒幕勢力の柱になってしまうけど)幕政改革を援護した薩摩藩の肝入りで設けられたんですから。
逆に、考えてみれば元治元年(1964年)に禁門の変で御所に討ち入った、当時の長州藩の方がよほど帝に弓弾くバチアタリともいえるわけですね。少なくとも帝を奉る方々が、帝の住まう禁裏に押し入って焼き打ちするのは、どう考えてもヘンだし…。

本編カット

実際『壬生義士伝』第1巻でも、語り部の竹中正助(のちに居酒屋「角屋」の親父に収まりましたが)がいみじくも語ってくれた通りです。
「みんな勤皇だったんだ」
要するに「手が切れちまった者」つまり結果的に、新政府軍と敵対関係になってしまった組が自動的に朝敵=反天皇派の逆臣というランク付けを食らっただけ、というワケ。

本音とタテマエは後で清算

ちなみに勝ち組の勤皇の志士たち、つまり「尊王攘夷=外国勢力打ち払い」を強硬主張した皆さんは、なんで幕末から明治維新を迎えたら、あっという間に「諸外国ウエルカム」にコロッと寝返っちゃったの? って疑問は誰でも湧きます。
要は当時、反幕府の口実に…悪評高い井伊大老が結んだ「日米通商修好条約」への反旗の旗印、スローガンとして「尊王攘夷」はうってつけだっただけで…要は御公儀へのイヤガラセですね。

ところが! 中には一部、本気だった人たちもいたワケで…実はこれが「長州」だったりするわけですが…元はというと、例の松下村塾の松陰先生に学んだ長州藩の「激派」と呼ばれた方々を中心に幕府に攘夷実行を迫り、文久2年(1862年)5月、関門海峡で通航する外国船に無差別攻撃を仕掛けてコケ負けする羽目になります。これが有名な「馬関戦争」ですが、この戦がもとで変わり身の早い薩摩は長州と一時袂を分かち、不器用な長州は幕府から長州征伐という藩存亡の危機に晒されるワケです。

ついでにいえば「生麦事件」を起こし、成り行きで英国人をぶった斬ったアオリをうけて始まった薩英戦争では一戦交えた薩摩も、鹿児島が砲撃されたあと「ま、まあ、お互いに結構いい汗かいたでごわすなぁ」なんて「昨日の敵は今日の友」流に英国と手を結んじゃったし、当の幕府(主に一ツ橋慶喜公)に至っては最初から逃げ腰だったし…要は皆さん「攘夷なんて、最初から本気じゃなかったのに〜」ってのが本音だったんですね。
結局「佐幕」に対抗する「攘夷」ってスローガン自体が「不毛なサバクでした」という、しょーもないオチでした、お粗末!

さて次回は、ドタバタ幕末の各藩事情つながりということで、吉村貫一郎が出奔した「南部藩」にまつわる異聞を少々ツッコミましょう。

→次回
「大貧乏南部藩、原因はバブル崩壊!?」に続く
イラストカット
2019.09
『壬生義士伝』執筆状況

「大野千秋編」
現在鋭意作業中
掲載予定は2020年
(予定)!

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