壬生義士伝異聞

『壬生義士伝』も第六章「中間・佐助編」が完結。吉村貫一郎の壮絶なる最期と、大野次郎右衛門との絆にまつわる謎が解かれて、いよいよ次章で物語も佳境…息子・嘉一郎の最期の華舞台へと移るのですが、このまま次章へすぐ突入できない事情があるのです。
以前もコラム「ながやす流漫画術」でお話ししましたが、『壬生義士伝』迫真の画稿の数々はアシスタントを使わない、ながやす先生独自の漫画術で執筆されるため、いささか時間を頂く必要があります。現在の執筆状況や再開予定は今後も本サイトで順次お伝えしますが、ちょっとこの幕間を利用して『壬生義士伝』の世界にまつわる、少し変わった史実伝聞、不思議なエピソード(!?)などなど、お伝えするこのコーナーにもお付き合いくださいませ。
チェックすれば『壬生義士伝』本編は一気に10倍面白くなる! か、どうかは保証できませんけど…。

第25回
上等舶来ちょっと誤解?

冒頭から恐縮ですが今回のタイトルも、正直いって意味不明の方が結構いらっしゃるかもしれません。つまり「上等舶来」って何のこと? と悩む方が出てしまう程度に、我が国のブランドイメージが上がった結果この四文字熟語が、ほぼ現代では「死語」になってしまったから…なのですが(それはそれでイイことなんだけど)少なくともこのコトバ、半世紀前には、誰でもわかる日本語として通用してたのですよ。
つまりそれだけ欧米製品への、熱烈な信仰が根強く残ってたんですね、つい最近まで。
逆に「メイド・イン・ジャパン」は「安かろう悪かろう」な粗悪品(あるいはパチモン)の代名詞として欧米から悪評を食らってた時代は、おおよそ一つ前の東京オリンピック開催当時までは続いていたんだ!…と力説しても(お年を召した方はともかく)現役世代には全く信じてもらえないか…。

そこで話は「~異聞」の時代、幕末へ戻ります。
確かにペリー提督が浦賀沖に4隻の黒船率いて出現する少し前から、ロシア船は北海道近海に出没してたし(だからその時代、南部藩は蝦夷地・渡島半島にまで陣屋を構えて異国船打ち払いへ駆り出されたのだし)、オランダ商船に偽装したイギリス船は長崎で狼藉の限りを尽くした挙句に逃走、なんて事件も引き起こしました。けど…やはりペリー提督流砲艦外交のインパクトは並外れてデカかった! 江戸湾の奥まで侵入して、いきなり艦砲射撃のデモンストレーションを派手にカマしてくれると、江戸庶民は「たった四杯で夜も眠れず」ノイローゼになったのも仕方ない。
まあ黒船兵器による「圧倒的戦力差」は、一番分かりやすい「上等舶来」カルチャーショックと言えなくもないですね。これに匹敵するのは幕末以前だと、御存じ「種子島鉄砲伝来」ですか。あのときも、戦国の勢力地図が一気に塗り替わって(その後の織豊政権のドサクサを経て)徳川泰平三百年にわたる時代変革が訪れたわけですが。

我が国十八番「上等舶来ショック」

面白いはこの幕末「上等舶来」カルチャーショック、前のよりも極めて短期間に成果を発揮した点です。鉄砲伝来を西暦1543年とすると、ちょうどキリよく60年後(同1603年)に徳川幕府が開府するわけですが、今回の黒船来航の場合には1853年を起点として、その15年後にはもう明治維新が起こってるのだから、前の「上等舶来効果」の1/4という短期間で歴史転換が完了したことになります。ある意味で劇薬効果テキメンというか…まあこんなモノ、時代背景も違うし単純比較しても仕方ないんだけど…。
ついでに史実をおさらいしておくと、黒船のケタ外れの威力に驚いた幕府が「こりゃウチも黒船を入手せんとヤバい!」と最初に入手したのは1855年の外輪式コルベット「観光丸」(実はオランダからの寄贈)ですので、黒船来航から2年後というスピードです。

ただ、これが本邦初の黒船(蒸気船)というワケでもないのです。実は黒船来航より早く、薩摩藩は洋式帆船の建造を進めており、なんとオランダ経由の書物研究だけで蒸気機関まで建造。幕府の観光丸購入と同年の1855年には国産初の外輪蒸気船「雲行丸」を江戸-薩摩間で就航させています。さらにいうと宇和島藩も薩摩や幕府と時を同じくして実験的蒸気船を完成(開発担当は蘭学者の村田蔵六、のちの帝国陸軍の創始者・大村益次郎)、鍋島藩はその10年後に、本邦初の実用外輪蒸気船「凌風丸」を就航…と、立て続けに我が国に蒸気船ブームが巻き起こりました。
このあたり、ポルトガルが種子島にサンプルの火縄銃を持ち込んだら、あっという間に国産化に成功したという故事を思い出させますね。

本編カット 本編カット

結果的に幕末、明治維新直前までのわずか10数年のうちに幕府を含めて雄藩その他19藩で列強から購入したものと国産化に成功したものを含めて、合計80隻を超える蒸気船(外輪船・スクリュー船)を我が国は所有することになります。
当然、これら艦船はその後幕末動乱(長州征伐および戊辰戦争)で大活躍することとなるのです。ちなみに『壬生義士伝』にも登場した徳川慶喜の旗艦・富士山丸(スクリュー式コルベット)は1865年・アメリカ製(ニューヨークで建造)でした。江戸湾でペリー提督が艦砲射撃をブッ放し威嚇してくれた時点から12年足らずで、ここまで「上等舶来」トレンドは進行しました。「上等舶来」は言い換えるなら我が国の社会構造を変えてしまう「ガイアツ(外圧)」の一種と考えてもいいでしょうね。特に軍事面でのソレは、目に見えるガイアツ効果もむちゃくちゃ顕著なのです。

フィルターが映した誤解合戦?

さて今回、本編では第4巻末で桜庭弥之助が英国留学して西洋列強から建築学を学んだエピソードからひも解いて、幕末明治以降に日本人が海外留学で起こした面白エピソードや、逆に日本へやってきた欧米の、俗にいう「お雇い外国人」の話を中心にご紹介しようと思ったのですが…実際その手のオモシロ話は事欠かないのですが…実はこれを始めると、どんどん本編の『壬生義士伝』と関係ない方向へ話が飛んでしまうのです。なので今回はジャンルを「建築関連」に限定することにします。

西洋建築が幕末から一気に我が国に建設ラッシュを起こした典型的な例は、ペリー来航から5年後の安政5年(1858年)に結んだ日米修好通商条約で開港した横浜でしょうね。場所的には現在の横浜・関内と呼ばれるエリアですが、ちなみになんで「関内」かというと、幕府がこの横浜居留地に橋(吉田橋)を架けて関門を築いたからです。関門の内側に作られた居留地だから「関内」。長崎の出島と違って居留地へは日本人立ち入り禁止…ではなく(ただし武家は入れず出入りの貿易商人のみ許可、でした)、むしろ居留外国人を当時繫栄していた東海道の神奈川宿に近づけない防衛策だったようですが。

で、この関内居留地こそ、わが国最初の西洋建築あふれる異郷となったワケです。当時、日本へ赴任してきた初代英国総領事のオールコックは「まるで魔法の杖を振ったようだ」と変貌する関内の様子に驚嘆したとか。このあたりの突貫工事のスピードは、我が国にわずか数年で突如出現した「西洋建築街パビリオン」…居留地というより万博開催地みたいなイメージだったんでしょうね。ただ、ここを訪れたのは観光客ではなく主に貿易商人(西欧&日本人の豪商)と遊郭関係者(?)、清国から連れてきた買弁(使用人)などなど。前回にお話しした「日米の金相場による為替差益」で大儲けした商人たちで、ここだけは我が世の春…の超バブリーなスポットに化けたワケです。

さらに明治維新後…つまり居留地開設どころか新政府は欧化政策に舵を切って…東京(当時は「とうけい」と呼んだそうですが)で明治19年(1886年)首都大改造計画をブチ上げます。これは要するにお雇い外国人(主に建築家たち)を招聘して、築地から霞が関一帯までを官庁街から中央駅、劇場、博覧会場、新宮殿、国会議事堂などを配する都市計画を立て、それもパリやベルリンに並ぶ壮大なバロック様式建築群で埋め尽くすという壮大なものでした。
構想したのは明治の「鹿鳴館外交」で名高い…というより悪名高い…外務大臣の井上馨でしたが、残念ながら構想がデカすぎて予算規模もケタ外れ。結局その翌年に井上は不平等条約改正に失敗して失脚し、この夢の計画もお流れとなります(ただし司法省や大審院など、一部の建築物は予定通りに着工・完成しました)。

本編カット
ハリボテ外交の誤解とは…

「鹿鳴館外交」の話を出したついでに、当時の外務大臣・井上馨が苦心惨憺の末に考案した極端な欧化政策で不平等条約改正を目論んだ失敗について、ちょっと触れましょう。
ちなみにこの鹿鳴館を設計したのは、件のお雇い外人でジョサイア・コンドルという英国人建築家で、先の首都大改造計画の司法省から海軍省、さらに有名なお茶の水のニコライ堂などなど、主な作品だけで数十を超える足跡を我が国に残しています。この人は俗にいう「ヘンな外人さん」で、のちに日本人の妻を娶り、わが国で人生を全うしています(享年は1920年・67歳)。奥さんは花柳流の舞踏家で、本人の趣味も日本舞踊から生け花、浮世絵(絵師の河鍋暁斎に弟子入り)に狩野派の日本画、それに落語などなど、とまさしく日本オタクの元祖みたいな人物でした。

それはともかく、この鹿鳴館で繰り広げられた「極端な欧化政策」外交は…現在わが国でも評判はあまり芳しくないのですが…実は相手先の欧米からの評判も、相当に宜しくないというか、かなり足元を見られておりました。まあ、なにせ西洋式社交マナーさえろくろく学んでいない日本人が、しかも夫人同伴で(!)欧米人のダンスパーティに臨席させたのだから、どんな無茶苦茶なドジを踏んで失笑されたかは、想像しただけで…。

このあたり「向こうさん達の」率直な本音は、たとえば風刺画家ジョルジュ・ビゴー(教科書などでよく見かける「朝鮮を狙う日本と清国」の風刺画を描いたことでも有名です)のイラストでは、鹿鳴館でタキシードとドレスを纏った日本人「サルの夫婦」として描かれています。正直いってかなりムカつく内容なのですが、やはり無理して付け焼き刃の外交で「ニッポンワ文明化シマシタヨ条約改正シテネ」と媚を売れば、こういう扱いを受けるのは必然だったのでしょうね。

余談ですが、この風刺画家ビゴーという人物も、実は日本で妻を娶った…のはいいけど、かなり夫婦仲が険悪だったらしく結局、離婚して息子だけを連れフランスへ帰国しています。で、彼がその後フランスで出版した(1899年)画集もかなり「日本への偏見と幻滅に富んだ」ものだったようです。言ってはなんだけど、家庭内のゴタゴタを八つ当たりのネタにして欲しくないものですね。まあ、百年以上前の話を蒸し返しても仕方ないけど。さらに余談ながら、ビゴーの画集出版からちょうど百年後(1999年)に、フランスで始まった「ジャパンエキスポ」は現在、ヨーロッパにおける最大の日本オタクイベントとして毎年、大盛況を博しているとか。

ただ(話を元に戻しますが)文明開化初期における欧風建築ブームに関しては、実のところ来日した欧米人にはおおむね評判が芳しくなかったようです。たとえば当時の著名な英国人旅行家イザベラ・バード女史は著書『日本紀行』で明治初期の築地から銀座あたりで雨後のタケノコのごとく建設された欧風建築に対して「悪趣味で醜く、安っぽいサンフランシスコの場末にある居酒屋のようで…」とクソミソに評しています。残念ながら彼女は、件の鹿鳴館が竣工する直前に離日しているので、その評価は日記に残っていませんが、もし彼女の目に触れていたら、さて何と言ったでしょうね。
結局、欧米人の目から見た「文明開化」は、当時の日本人たちが目標にしていたものとはずいぶん違ったイメージに映っていたようです。もっともそれをいうなら、ちょうど幕末以降にヨーロッパを席巻した「ジャポニズム」=熱狂的日本ブームにしたって、私たちの目には相当に歪んで誤解されたものに見えてしまうのだから、まあ…お互い様の痛み分け、といったところでしょうか。

さて次回は、ちょっと扱いきれなかった「上等舶来~」の続きを少々。時を若干戻して幕末の維新大動乱の時代にお雇い外国人(というより、押しかけ外国人?)や蘭学技術をもとに悪戦苦闘した薩長や幕府(&元幕府)の方々のエピソードをピックアップしましょう。

→次回
【上等舶来かなり誤解?】に続く
イラストカット
2022.04
『壬生義士伝』執筆状況

「居酒屋『角屋』の親父2」
執筆完了 現在鋭意編集作業中

配信開始は 6月3日(金曜日)より!

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