巧の部屋 ながやす巧の漫画術

第11回
壬生への長い道 
鉄道員(ぽっぽや)

前々回から、ながやす先生と原作者浅田次郎先生との出会い、そして『壬生義士伝』へとつながる秘話・打ち明け話がスタートしました。浅田先生原作による初の漫画作品『ラブ・レター』が1998年に週刊ヤングマガジンに掲載、そして満を持して第2作『鉄道員(ぽっぽや)』が登場…するはずだったのですが…。今回はその続きです。

浅田次郎先生の短編集『鉄道員』を一読し、一気に魅せられたながやす先生の
「これ、描けないかな?」
という一言で始まったお二人の縁は、文芸担当さんを通じてオファーした際の、浅田先生のお返事
「へえーそうなの? いいよ」
という…これまた単純明快な一言であっというまに実現しました。
まずは第1弾として、ながやす先生が「短編集の中で、一番泣いた!」という『ラブ・レター』が3回に分けて週刊ヤングマガジンに連載されたのは1998年春のこと。ヤンマガを卒業したアッパーミドルの読者層まで巻き込み、大好評を博した勢いで、いよいよ第2弾の本命『鉄道員(ぽっぽや)』掲載へと、すぐに話は進む予定だったのですが、ここで一つ、問題が発生してしまいました。

本編カット

『ラブ・レター』はページ数ほぼ百ページ。これを合計3回に分けて(26号から28号まで)掲載したのですが、さて『鉄道員』の方はというと…ながやす先生が最初にネームを切った段階で、ボリュームが全173ページになっていたのです。
ページ数が増えただけなのに、それが何の問題? と思われるでしょうが、これを雑誌に一挙掲載しよう、となると話がまるで違ってきます!

ながやす先生は、最初からこの『鉄道員』を「何回かに分けて掲載する」という形式は望んでいませんでした。漫画本編をお読みになれば、その理由はすごく、よーっくお分かり頂けると思うのですけど、それはともかく…。
もちろん、週刊ヤングマガジンで一挙掲載は不可能! 『鉄道員』だけでほぼページが埋まってしまいますから。
実は当時、講談社の担当編集さんの間での、浅田先生&ながやす先生コンビの作品掲載誌をめぐる調整ごともいろいろあって、『鉄道員』は(ヤングマガジンではなく)月刊アフタヌーンに掲載する、ということになりました。アフタヌーンなら分厚いし(2018年現在でも、千ページ以上あります)ここならば…とはいうものの、それでも173ページはやっぱり多い!

編集部からは「もう少し短くまとめられない?」とリクエストが来たけれど、これだけはキチンと見せたいから、削るに削れない。
「じゃあ、二回に分けて前後編で掲載しよう」
ながやす先生は大反対しました。アフタヌーンは月刊誌だから、前編を読んだ読者は、途中まで読んだ後で一月間待たされることになるんですから。
そうこう揉めているうちに、もう掲載号の台割(雑誌のページ構成表)を組まなきゃいけない期限が来てしまいました。

「ネームじゃなくて、絵になったところを見て下さい。僕の言った意味が判るから」
ながやす先生は言いました。
原稿は全部完成してないけど、人物は入っている。背景も1/3入ってる。この原稿を、当時の担当さんに見ていただきました。見た後、彼は言ったそうです。
「やはり…これは一挙掲載すべきですね」
担当さんは納得。けどもちろん、彼一人で決定はできません。
その後、実は編集長同士の口添えやら、編集部同士での駆け引き(一時期は「アフタヌーンで一挙掲載が無理なら、ヤングマガジンで週刊連載する!」という話まで持ち上がったとか)などがありましたが、結局最終的には、おそらく前代未聞の『鉄道員』173ページ一挙掲載という快挙(!)が実現したのでした。1999年9月号でのことです。

車内刷りの発売告知で『鉄道員』を知った、当時のアフタヌーン編集長の恩師が「生まれて初めてマンガを買った。すばらしい!3回読んだよ」と電話をかけて来られたというのが、最初の反響だったそうです。
「一挙掲載してよかった…」
最初は難色を示していた当時の編集長も、そう言って下さったとか。

というわけで、社内からは引き続き「次回作を!」というリクエストが入りました。今度は、浅田次郎先生原作だったら何でも! ながやす先生がお気に入りの作品を推薦して下さい、ということになって。
では次回作は『壬生義士伝』を、と話が進みそうなのですが、さにあらず。
実は最初に候補作として『壬生義士伝』を一読したながやす先生の感想は…。

「ダメだよこれ…」
でした。

次回
【壬生への長い道 吉村に魅せられて】に続く
戻る TOP