壬生用語辞典

第2話
(単行本第1巻)P050〜P084

二駄二人扶持の小身者
二駄二人扶持の小身者
(にだににんぶちのこもの)

大野次郎右衛門が、吉村貫一郎を罵ったときに吐いた文句です。
蔑みの言葉だとは判るのですが、具体的にはどんな意味かと言うと…
「二駄」は「馬が二頭分」ということ。江戸期以前だと馬一頭が、俵二つを振り分け荷物として運んだので、二駄だと合計で俵4つ分、ということになります。
一俵はコメにしてだいたい5斗(50升=75キログラムくらい)ですから、二俵だとおよそ十斗(百升=150キログラム)。実はこれが「一石」で、一人が一年で食べるコメの基本単位だったわけです。
一日に換算すると一人およそコメ五合(500グラム)で生活しろ、ということですね。まさしく生きるのにギリギリの現物支給)!これを二人分(合計4俵)支給、が吉村の「足軽小身者(あしがるこもの)」としての立ち位置でした。もっとも吉村の場合、これに加えて扶持米(要するに生活補助)が別途支給されていたようなので、合計すると年に14俵になったようです(これは『壬生義士伝』本編の語り部・竹中正助の計算によるものですが)。ちなみに「小身者」は禄の低い下級者を馬鹿にした呼び方です。身長の低い人、という意味ではありません。
よく時代劇で「ナントカ藩百万石!」などという呼び方を聞いたことがあると思いますが、これは江戸時代に「人口百万人を養えるだけの豊かな藩」という意味になります。

→初出 第1巻p052

中間
中間
(ちゅうげん)

「ちゅうかん」と呼んではいけません。
身分的に武士ではなく「武家に仕える奉公人」のこと。一般には、武家屋敷で雑用を勤める奉公人全般を指しましたが、たとえば参勤交代のときなど、多くの人手が必要なときだけ、色々な藩を臨時雇いで渡り歩く「渡り中間」などもいました。いまでいうフリーター(死語?)ですね。ただし現代社会に「フリーターで公務員」という方はいませんが。

→初出 第1巻p055

介錯と一人腹
介錯と一人腹
(かいしゃく・ひとりばら)

南部藩大坂屋敷で吉村貫一郎が切腹を命じられたとき、彼は大野次郎右衛門の介錯を断り「一人腹」を召すことを選びました。
意味的には明快なので解説無用だと思いますが、問題はその難しさです。
想像がつくと思いますが、腹を切っただけで人間は簡単には死ねません。だから介錯人がついて、後ろから首を落とし絶命させるわけです(ちなみに一刀のもとに首を落とすのは相当難しく、これを失敗した介錯人は「士道不覚悟(武士としての覚悟が出来ていない)」の誹りを受けます…このあたりの描写は、本書第8巻で詳細に描かれています)。
一人腹の場合、作法としてはまず腹を横一文字(強者だと横三文字や十文字!)に斬った後、返す刀で自分の頸動脈に刀を当て、出血多量で自らの命を絶った…とか。
腹を切った激痛に耐えつつ、さらに頸動脈を断ち切るなど、想像もできないほどの難行だったことは想像に難くありません。
さらに吉村の場合、すでに手負い深手の状態でしたから、その難度たるや…。

→初出 第1巻p058

大和守安定
大和守安定
(やまとのかみやすさだ)

大野次郎右衛門が吉村貫一郎に貸し与えた刀の銘です。大野は大業物、と呼んでいました。ちなみに「大業物」は名刀の中では二番目にランクされています(トップランクは「最上大業物十四刀」)。
「大和守」と銘打っていますが実は武蔵国の刀工で、江戸時代初期に活躍したそうです。
その縁からか、試衛館道場の面々(のちの新選組隊士の中核メンバーとなる)沖田総司や大石鍬次郎、幕臣の伊庭八郎(幕末に遊撃隊隊士として活躍)など錚々たる剣豪たちが愛用したとも言われています。
だとすると、吉村は、新選組の同僚だった沖田総司の刀と同じ銘の業物で、切腹することになっていたのですね…。

→初出 第1巻p061

大坂城
大坂城
(おおさかじょう)

「大坂城」であって「大阪城」ではない、というところがミソです。
…どういうことかというと…
ご存知の方も多いと思いますが、太閤豊臣秀吉が建立したオリジナルの「大坂城」は、江戸時代初期の「大坂夏の陣」で落城焼失。その後、幕府によって天守閣を含め再建されたものの、事故や落雷などでたびたび焼失を繰り返して結局、1665年(寛文五年)の落雷で天守が焼け落ちて以降、大坂城は天守閣を持たない城になりました。
現在の「大阪城」は、1931年(昭和6年)に再建・完成した「オリジナルの豊臣太閤版に近い」天守閣となっています。
なので、江戸時代に「大坂城」がはたしてどんな天守閣を持っていたかは分かりません。詳細な絵図面も残ってないし…。
本書でも、実は「立派な天守閣を戴いた大坂城」は一度も登場していませんが、理由はそういったワケです。

→初出 第1巻p078

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