壬生用語辞典

第5章 8話

橋場の陣
橋場の陣
(はしばのじん)

吉村嘉一郎が、秋田戦争(秋田打入り)で武功を立てた戦いの舞台で「雫石・橋場口の戦い」とも呼ばれています。
戊辰戦争末期の明治元年(1868年)8月末、南部(盛岡)藩は、奥羽越列藩同盟から離反して官軍についた秋田(久保田)藩領に攻め入りますが、新政府軍まで加わった一進一退の攻防の末、結局戦況は逆転して9月末には盛岡藩領・雫石の橋場口(現在の岩手県岩手郡雫石町橋場)まで押し返されてしまいます。
この戦いはいわば「退き戦」であり、古来より一番損耗率の高い戦いでもあります。殿軍(しんがり)の兵として奮戦した嘉一郎の武功もまた、壮絶なものであったろうと想像できますね。
ちなみに南部(盛岡)藩は9月末にはすでに降伏を決定、10月15日には正式に盛岡城を開城していますから、この戦が盛岡最後の戦闘ということにもなります。

→初出 第5章8話 p010

不来方の城
不来方の城
(こずかたのしろ)

南部(盛岡)藩主の居城であった「盛岡城の古名」と言われていますが、実は(正確には)「不来方城」は現在の盛岡城の前身で、その城郭も別のものだったようです。
城そのものは明治初頭の「廃城令」で解体され、残った城跡は岩手公園となりました(現在は盛岡城址公園として再整備計画が進んでいます)。
ちなみに「不来方」とは、かつてこの地に住み着いていた鬼を、三ツ石(現在、盛岡市に残る三ツ石神社)の神に祈って追い出した折、鬼は「二度と来ない」方角という意味でつけられた地名だそうです。

→初出 第5章8話 p031

木遣
木遣
(きやり)

江戸の鳶(とび)職人たちが歌う、労働歌の一種で「木遣り歌」ともいいます。もともと重いものを力を合わせ、持ち上げる掛け声が発祥とわれていますが、江戸に人口が集中した頃、数多く必要となった家屋を建設するために鳶職人たちが集められ、やがて彼らは江戸文化の花形となりました。
さらに鳶職人は火消しを兼任するようになり、その地域の氏神神社に対し氏子代表として、もろもろの世話をする職業へと変わっていきます。そして「木遣」は江戸伝統の、祭りや出初式など、さまざまな儀式で歌われる芸能へと進化しました。
また江戸庶民の婚礼(神前婚礼)などでも、神社へ向かう新郎新婦の先頭に立って鳶職人たちが木遣(祝詞)を歌いつつ行列する儀式が一般化しました。この伝統は本編で明治の大野千秋と妻みつの婚礼でも描かれましたが、実は神前結婚での「木遣」先導そのものは、現在でも江戸鎮守・神田明神での儀礼などでも脈々と受け継がれています。

→初出 第5章8話 p035

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