壬生用語辞典

第六章 第3話

御高知・御高知衆 御高知・御高知衆
御高知・御高知衆
(おたかち・おたかちしゅう)

第1章でも解説しましたが、南部(盛岡)藩では、基本的に千石取り以上の武士は「御高知衆(おたかちしゅう)」あるいは「高知衆(たかちしゅう)」それ以下は「平士」と呼ばれていました(実際の区分はさらに細かいのですが、ここでは省略)。
ところで元次郎右衛門のお供(中間)だった佐助は、四百石取りの大野家が「御高知衆」だったと語っています。先の基準からすると、条件を満たしていないようですが、藩の財政を取り仕切るという、家老格に匹敵する役職を任されていた大野家の場合、南部(盛岡)藩からは十分、その資格ありということで御高知衆に取り立てられていたと思われます。

→初出 第六章 第3話 p005&006

天保山沖
天保山沖
(てんぽうざんおき)

天保山とは、大阪湾の出口に当たる安治川河口(現在の大阪市港区の天保山公園)にある、土塁を積み上げ造成された山(築山)のことで標高は4.53m、日本で一番標高の低い山でした(2011年の東北大震災以降に宮城県仙台市日和山の標高が変わって一番低くなり、現在は2番目)。
幕末にはここに大坂湾を守る台場が設置されていました。ちなみに元中間・佐助が語っているのは慶応4年1月6日深夜(1月7日暁)、この天保山の沖から将軍徳川慶喜を乗せた開陽丸が江戸へ逃げ帰った事例のことです。
ちなみに将軍慶喜や老中の酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬ら側近のほか、この戦で生き残った新選組隊士45名らもこの開陽丸に乗船していたと伝えられています。

→初出 第六章 第3話 p011

高張提灯
高張提灯
(たかはりちょうちん)

江戸初期から、武家屋敷門柱などで利用されたナツメ型の大型提灯で長竿の先に括り付けて使用しました。のちに火消人足や寺社の門前などの目印としても幅広く使用されるようになりました。
もっとも藩の大坂蔵屋敷に常時、この提灯は掲げられているわけではなく(つまり、もっぱら非常時に掲げられる)、これが本編の場合は「鳥羽伏見の戦において、南部藩は関与せず(どちらにも組しない中立)」の非常事態宣言と佐助は解釈したわけです。
ちなみに武家屋敷で高張提灯が大活躍した例としては、有名な元禄の赤穂浪士討ち入りの際、隣家である旗本・土屋主税屋敷から、塀越しにこの長竿に括り付けられた提灯が多数掲げられ、浪士たちの吉良上野介探索の助けとなった…などという逸話が有名ですね。

→初出 第六章 第3話 p013

錦旗
錦旗
(きんき)

俗に言う「錦の御旗(にしきのみはた)」、薩長を中心とした官軍の象徴ですね。ちなみに本編では戊辰戦争の激戦地(淀千両松)で、新選組が加わった幕府軍の目の前でこの錦旗が翻った描写があります。幕府側の戦意が一気に挫かれる中、吉村貫一郎は単身で切り口上とともに立ち向かっていったシーン(「斎藤一編」第9巻p174)は圧巻でした。
もっとも大野次郎右衛門は、戦に敗れて南部藩蔵屋敷に転がり込んだ吉村貫一郎に対し、この「天朝様の象徴である錦旗に弓引く行為」を厳しく処断しているのですが…。
それだけ戦場で「旗」という象徴が持つ意味は私たちが想像する以上に大きいものだったのですね。ちなみに戊辰戦争で使用されたこの錦旗は、岩倉具視の部下がデザインし、薩摩藩の大久保利通が仕立てたと言われています。いずれにせよ官軍(新政府軍)の士気高揚には大いに貢献した反面、幕府側には大変な戦意喪失を招いた存在でもありました。

→初出 第六章 第3話 p029

大和守安定
大和守安定
(やまとのかみやすさだ)

大野次郎右衛門が吉村貫一郎に貸し与えた刀の銘です。大野は大業物、と呼んでいました。ちなみに「大業物」は名刀の中では二番目にランクされています(トップランクは「最上大業物十四刀」)。
「大和守」と銘打っていますが実はこの刀を打った刀工は武蔵国の出身で、江戸時代初期に活躍したそうです。
その縁からか、試衛館道場の面々(のちの新選組隊士の中核メンバーとなる)沖田総司や大石鍬次郎、幕臣の伊庭八郎(幕末に遊撃隊隊士として活躍)など錚々たる剣豪たちがこの名刀を愛用したとも伝えられています。とすると吉村は、新選組の同僚だった沖田総司の刀と同じ銘の業物で、切腹することになってしまったのですね…。

→初出 第六章 第3話 p030

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