壬生義士伝異聞

第3回
大名昇進祝い…で大失敗?

「斎藤一編」の最終盤でも語られたことですが、新選組は慶応四年(1968年)正月に、鳥羽伏見の戦で薩長軍(官軍)と激突。いわゆる戊辰戦争の火ぶたが切られたわけですが、結局淀千本松での戦闘で大敗北を喫して敗走します。
ちなみに新選組として、この戦を指揮していたのは近藤勇ではなく、土方歳三でした。このとき肝心の局長はというと…大坂で静養していたのですね。

本編カット
勝負の前には大宴会!?

本編の「池田七三郎編」でも描かれているのですが、この戊辰戦争勃発直前、近藤勇は御陵衛士の残党に狙撃され大怪我を負い、肺病が悪化していた沖田総司とともに大坂城で幕府典医の治療を受けていたのです。
そして鳥羽伏見の戦での敗戦ののち、富士山丸で江戸へ戻り、新選組を「甲陽鎮撫隊」と改めて甲州方面へ進軍するのですが、これが同年三月一日のこと。
本稿第1回目でも書きましたが、この折に近藤は「大久保大和守剛」と改名し、軍資金五千両を下賜されたうえに大名格という破格の身分 まで与えられたわけです。ここで手柄を立てれば、まさしく起死回生の一発逆転!
ところがこの進軍の道中、近藤勇たちは故郷の武州多摩のあちこちで「故郷に錦を飾る」と称して、何度か盛大な酒宴を催していたようなのです。この非常時に!
結局、その後大雪に降り籠められたりして進軍は遅れ、三月六日に甲州勝沼で戦端を開いた時は既に遅し、結局甲府は官軍に奪取されるという醜態を晒してしまいました。

リクルートしなきゃ戦にならぬ

普通の感覚でいえば、大名格に取り立てられて舞い上がった近藤の不手際を責めるべきなのかもしれませんが、実はこの「宴会」、不足した兵力を補充するために催した募兵のイベントだったという説もあるのです。実際、副長の土方歳三はこの進軍と別行動をとって神奈川方面へ、増援依頼に奔走しています(結局、不首尾に終わったようですが)。
実際問題「甲陽鎮撫隊」などと麗々しく看板を掲げてはいても、たかだか兵力は三百人そこそこ。この「郷里の大宴会」は、何とか「故郷の出世頭」の威光で兵士をリクルートしないと兵力差が埋まらない(事実、勝沼で激突した官軍の兵力は三千人規模でした)という現状を認識していた近藤勇が仕掛けた、苦肉の策だったとも考えられます。外っ面だけ見て人を責めるのは禁物、ということでしょうか。
では次回は、近藤の陰に隠れて幕末に大奮闘し駆け抜けた、副長「土方歳三」の副業(?)にまつわる異聞をご紹介しましょう。

→次回
【万能!? 石田散薬】に続く
イラストカット
2022.04
『壬生義士伝』執筆状況

「居酒屋『角屋』の親父2」
執筆完了 現在鋭意編集作業中

配信開始は 6月3日(金曜日)より!

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