壬生義士伝異聞

『壬生義士伝』も第六章「中間・佐助編」が完結。吉村貫一郎の壮絶なる最期と、大野次郎右衛門との絆にまつわる謎が解かれて、いよいよ次章で物語も佳境…息子・嘉一郎の最期の華舞台へと移るのですが、このまま次章へすぐ突入できない事情があるのです。
以前もコラム「ながやす流漫画術」でお話ししましたが、『壬生義士伝』迫真の画稿の数々はアシスタントを使わない、ながやす先生独自の漫画術で執筆されるため、いささか時間を頂く必要があります。現在の執筆状況や再開予定は今後も本サイトで順次お伝えしますが、ちょっとこの幕間を利用して『壬生義士伝』の世界にまつわる、少し変わった史実伝聞、不思議なエピソード(!?)などなど、お伝えするこのコーナーにもお付き合いくださいませ。
チェックすれば『壬生義士伝』本編は一気に10倍面白くなる! か、どうかは保証できませんけど…。

第24回
金庫がカラなら「紙に書いて作れ」

今回はタイトルが少々意味不明で申し訳ありません。
文字通りに解釈すると「贋金作り」? 現代語だと「通貨(紙幣)偽造」。現代の刑法だと最高刑で無期懲役の大罪です! なぜ現代日本は極めて通貨偽造を厳しく取り締まるかといえば、通貨の正しい流通は何より国家信用の基盤だから…なのですが、じゃあ幕末から明治にかけてお上が似たようなことを堂々とやってた場合は…どうなったのかというのが今回のお題なワケです。

開国が生んだ幕末「贋ガネ?」事情

まず最初は幕末開国のドサクサを収拾すべく、幕府ご公儀が窮余の一策で贋金作り…いや幕府自身は貨幣鋳造権を持ってるワケだから「贋ガネ」じゃなくて本物の小判なんだけど、当時の庶民感覚だとやっぱニセガネ…に手を染めたというお話について。もっともこのケースでは、紙に書いたカネを市中に流通させようとしたわけじゃなく、金貨(小判と二分金)を鋳潰して打ち直す「改鋳」を実行したのですけど。

出回ったのは万延元年(1860年)、幕府が最後に発行した俗にいう「万延小判」で、発端は鎖国を廃して開港した際、外国へ日本の金(「カネ」ではなく「きん」)が怒涛の如く流出しはじめたこと。要するに金と銀の交換レートが我が国と欧米でかなり異なってた(金の価値が極端に低かった)のが原因で、メキシコあたりから安い銀がなだれ込み、小判と交換すれば外国商人は大儲け、という状況が生まれてしまったのです。
で、仕方なく幕府は金の含有率をガン、と落とした万延小判に改鋳して、古い小判との交換レートを変更したのだけど…たとえば「慶長金だと100両につき、安政金で258両、新万延金だと548両」つまり17世紀初頭の慶長時代から考えると、貨幣価値は実質1/5以下(直近の安政時代に比べても半分以下)に落っこちたワケです!

必然的に通貨「両」は大暴落。巷には新両(万延金)切り替えのせいで超インフレが吹き荒れる結果になりました。庶民はもう何が何だか分からなくなって「ええい。もう踊るっきゃねえ!」と昼日中から連日「ええじゃないか!」騒動で経済はマヒ状態。不平浪士や草莽の志士たちは「この大不況は、そもそもガイジンたちが神州日本に土足でズカズカ乗り込んで来たせいだ! あんな連中叩き斬っちまえ」で攘夷の嵐…まあ極端な論理だけど、あながち原因がムチャクチャ欧米諸国への八つ当たり見当違い、とも言い切れないところは辛いですね。

さらに書いておくと、この万延年間(つっても、実質1年足らずだけど)に発生した…こちらは正真正銘「贋ガネ」が地方では流通した事例もあります。というのは、貨幣価値が暴落した「万延金」を見放し、勝手に鋳潰して「私製金貨(小判の方ではなく二分金だけど)」を流通させる藩が続々と出現したのですね。財政難に超インフレまで直撃して背に腹は代えられない、という各藩の事情はあっただろうけど、さらに問題はこの贋ガネを、肝心の幕府は放置したことです。というか、もう取り締まる余力もなかった…。

以前この「壬生義士伝異聞第8回 隊士は貧乏? お大尽?」でも扱ったことがあるのですが、一番困ったのがその当時の物価が(万延年間より少し時代は下りますが)この超インフレで正確に掴めず、おかげで近藤勇局長以下どれほどの俸禄を受け取っていたのかが計算次第でバラバラになってしまうことでした。現代の貨幣価値に直そうにも、近藤局長が嘉永年間の1両=3万円で計算すると月150万円だったのが(万延以降直近の慶応3年のインフレ率を掛けると)その1/10近くまで目減りしてしまうのだからお手上げです!

本編カット
戦をするにも懐がカラ!

というワケで幕末、この経済政策の大失敗だけじゃなく「長州征伐」敗北も相まって権威丸つぶれの挙句に大政奉還で幕府は消滅。翌年の慶応4年(明治元年・1868年)早々に薩長土肥の雄藩連合が倒幕(正確にはすでに幕府は消滅してるから反徳川)に立ち上がって戊辰戦争が勃発します。ところが、大坂城に立て籠もって応戦するはずの徳川元将軍・慶喜公はさっさと摂津湾から江戸へ引き返してしまいました。

本編カット 本編カット

この時点では薩長土肥は「官軍」だけど彼らによる「新政府」つまり「太政官」制度が公布されたのは、ようやくその年の4月。建前上は司法・立法・行政に分かれた三権分立になってはいるけど、内実は各藩寄せ集めのバラバラ。
実は前年(慶応3年)には大政奉還した徳川から(正確には元将軍・徳川慶喜から)新政府として孝明天皇一周忌祭の費用五万両を泣き落として借り出すほど困窮していました。ところが翌年早々には、カネを借りた当の徳川相手に戊辰戦争を起こしてしまったから、この手はもう使えない!
政権交代で財政的な引継ぎを、キチンと新政府が行っておけばこんな事態には…? と、いうほど都合のいい事情でもなかったようですね。建前上、封建制度(幕藩体制)のもとでは「幕府の保有資産」は徳川家の私財であって、新政府が引き継ぐ大義名分がない。難癖つけて幕府が貯めてた御金蔵を接収しようにも、戦争勃発直後にさっさと慶喜公は江戸にもどり、謹慎してしまった。処理に困ったのは、先んじて正月から始めてしまった戊辰戦争にかかる膨大な戦費ですね。

ここで念のため江戸時代「禁裏(皇室)」の経済状況を記しておきますが、当時の皇室は「禁裏御料」として幕府から年3万両を寄進されていました。ほとんど小大名クラスの石高レベルですね(これに宮家や五摂家など公家衆の収入を併せても10万両足らず)。もちろんここから戦費を賄えるはずもない…というより、この時点で幕府は大政奉還してるから禁裏は事実上、無収入。結局は薩長土肥の雄藩連合からの持ち出しに頼るしかない。あまりにも重い出費でした。実際問題、初戦の鳥羽伏見の戦で勝利したものの、余勢をかって慶喜を追い江戸へ駆け上る東征軍の費用さえ捻出できない有様だったのです。

紙切れ錬金術のマジック発動!

結局、この時点で新政府は「権力奪取」には成功したものの、国家の基盤が全く固まっていなかったため収入基盤はゼロ! だったワケです。ところがここから明治新政府、幕府も真っ青になるほどのすさまじい、トリッキーな手法で財政を乗り切ろうとしたのだから恐れ入ります。

…と、ご大層な前振りをしましたが実はこのあたり、事情の一端は『壬生義士伝』本編中にも(さりげなく、ではありますが)描かれているのです。
それが第10巻「大野千秋編」66ページのシーンです。奥羽越列藩同盟で南部が官軍に反旗を翻した責を負わされ、父大野次郎右衛門が斬首されたあと、息子の千秋は父から生前に託された依頼状をもって江戸改め東京へ上り、知己の伝手をたどります。ところが逆賊の汚名を着せられた旧南部藩士の子息に(父次郎右衛門に多大の恩義がある筈の)大商人たちの対応は冷酷で、ようやくたどり着いた廻船問屋「湊屋」ではなんと、強請扱いさえ受けて、何くれのカネを差し出され、追い返される始末なのですが……。
ここで差し出されたのが「小判」ならぬ金五両、金拾両などと刷られた「太政官札」つまり「金額が書かれた単なる紙切れ」でした。

本編カット

この紙切れが発行されたのは慶応4年1月21日(1868年、まだ明治には改元されていません)のこと。策を講じたのは元越前藩士の三岡八郎(のちの由利公正)で、新政府から参与に抜擢され…と書くと聞こえはいいのですが…要するに財政の手腕を買われて、というか押し付けられて「御用金穀取扱掛」として窮余の一策、発行させたのがこの太政官札だったのです。
この太政官札を全国諸藩に流通させ、記載された額面と引き換えに「正金」つまり現ナマを引き出すという仕組みです。と聞くと「兌換紙幣(本物の金と交換可能な紙幣)」にも思えますが、実はこの紙切れは13年後にならないと「利子をつけて正金とは交換できない」代物でした。つまり担保は「新政府の信用」それだけ。
ところがこれで、新政府は(結果的に)300万両という大金調達に成功したのだから恐れ入るしかありません。もっとも、新政府の重鎮は(大久保利通や後藤象二郎など錚々たるメンバーを含め)あまりの無謀な賭けに大反対したそうですが、他に妙案があったワケでもなく、結局は出たとこ勝負で実行されたというのが正直のところだったとか。
こんな大バクチが成功したのも、明治維新の大混乱と「強制流通」の魔力、というほかない(かもしれません)。

ただ結局、この戊辰戦争の戦費調達という緊急避難的な太政官札発行の成功に味を占めたのか、新政府は翌明治2年までこの紙切れを増刷し、総発行額は4800万両にまで達するのです!
さすがに市中にあふれた太政官札は当然ながらインフレを引き起こし、実質20%から50%割引でしか通用しなくなります(これは大坂改め大阪でのレートで、東京ではまるで実質紙切れ同然の扱いだったとか)。本編「大野千秋編」で千秋が訪ねた東京の廻船問屋の主人がこの太政官札を差し出して「これで料簡(辛抱)なさい」と言い放ったのも、こうした事情があったのでしょうね。
ところが戊辰戦争の戦費調達の妙案・太政官札発行の大功労者だった「御用金穀取扱掛」由利公正はというと、このインフレを引き起こした元凶として処断され、この明治2年のうちに罷免されて新政府からお払い箱となるのでした…。
ちなみに結局、この「太政官札」は明治5年までに回収され、新政府が自前の貨幣(壱円銀貨)と兌換紙幣(明治通宝)を発行するのは明治4年の新貨条例が制定された後のことです。

ここから先は今回の「~異聞」領域から離れるので詳しくは触れませんが、この時期と並行して新政府は「版籍奉還」「廃藩置県」「地租改正」…と、日本を怒涛の如く中央集権国家に替えていきます。ただそれは同時に欧米並みの資本主義国家への歩みでもありました。よく考えてみたら明治維新は「王政復古」…つまり天皇による国家統治を目指した運動だったはずなのに…つまり原理的には天皇による「公地公民」に戻すべきところを、現実には全く真逆の土地私有と私有財産制を基本にした、近代資本主義を目指すことになったワケです。まあそれを言ってしまうと、そもそも幕末の「尊王攘夷」だって、外国勢力を打ち払うはずだった運動が、幕末から明治には真逆の開国に舵を切ったのだから、皮肉といえば皮肉な結果ですね。

さて次回は、本編でも桜庭弥之助が上京後に志を替え、西洋列強の建築に学ぶ道へ進んだように、明治が外国留学やお雇い外国人に学んだエピソードから、ちょっと面白いお話をピックアップしてみましょう。

→次回
【上等舶来ちょっと誤解?】に続く
イラストカット
2022.04
『壬生義士伝』執筆状況

「居酒屋『角屋』の親父2」
執筆完了 現在鋭意編集作業中

配信開始は 6月3日(金曜日)より!

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