壬生義士伝異聞

『壬生義士伝』も第六章「中間・佐助編」が完結。吉村貫一郎の壮絶なる最期と、大野次郎右衛門との絆にまつわる謎が解かれて、いよいよ次章で物語も佳境…息子・嘉一郎の最期の華舞台へと移るのですが、このまま次章へすぐ突入できない事情があるのです。
以前もコラム「ながやす流漫画術」でお話ししましたが、『壬生義士伝』迫真の画稿の数々はアシスタントを使わない、ながやす先生独自の漫画術で執筆されるため、いささか時間を頂く必要があります。現在の執筆状況や再開予定は今後も本サイトで順次お伝えしますが、ちょっとこの幕間を利用して『壬生義士伝』の世界にまつわる、少し変わった史実伝聞、不思議なエピソード(!?)などなど、お伝えするこのコーナーにもお付き合いくださいませ。
チェックすれば『壬生義士伝』本編は一気に10倍面白くなる! か、どうかは保証できませんけど…。

第26回
上等舶来かなり誤解?

前回は幕末明治に欧米から怒涛の如く押し寄せてきた「上等舶来」というポイントに焦点を当て、その発端から明治初期に至るまでの「何とも妙な形で消化不良になり誤解して(されて)しまった」幕末明治の文物や人物のエピソードを取り上げました。
黒船ショックで無理やり欧米との格差に目覚めさせられ、この「欧米の文明ってムチャクチャ上等舶来なんだぜ!」の薬が効きすぎた挙句、誤解も加わって妙な文明開化となった例なども、第4巻末に登場した語り部・桜庭弥之助が英国留学して西洋列強から学んだ西洋建築からひも解いてご紹介しました(典型例は条約改正を目論んで大失敗した「鹿鳴館」外交とか)。

けど…改めて考え直せば、この「上等舶来」カルチャーショック一番の被害者は、何といっても「武士道」の伝統と格式に殉じて華々しく散った新選組の隊士たちであることに間違いないのですね。
なので改めてペリー提督砲艦外交の始まった時点(1853年)に少々時間を戻して、改めて時代が明治にと投入するわずか15年という短期間に、どうムチャクチャに「上等」な舶来の文明が流入し、引っ掻き回してくれたか…の舞台裏を「壬生義士伝」流ご紹介し直しましょう。

上等舶来の「火力で一気に開国交渉」

幕末は「火力の差がモノをいう」動乱の時代だったとも言えます。
前回お話しした19世紀中盤、1853年の「ペリー提督による砲艦外交」がその最たる例ですけど、実は欧米による開国交渉そのものはそれよりずっと以前…18世紀末から(民間資格ではあったけど)長崎を経由して始まっていたのです。そしてアメリカ政府の正式な使節として、1846年にはアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航。ここで公式に日本に通商を求めたけど、すげなく拒否され追い返された記録も残されています。さらにいえば1853年の黒船来航騒動にしても、その前年にオランダ商館長から長崎出島を経由して来航する旨が幕府に通告されていました…。
つまり、ペリー艦隊はわが国の度胆を抜いて「突如いきなり!」押しかけてきたわけでは全くないのですね。

要は、アメリカ側にすれば何度「粘り強く」交渉しても幕府が「暖簾に腕押し」で一向にラチが開かないから、後任の東インド艦隊司令官ペリーさんは穏当な交渉を転換して強硬措置に切り替え「再び」浦賀に押しかけ、さらに江戸湾奥まで進入して艦砲射撃で脅しをかけてくれたワケです。哀しいかな、その効果はテキメン。わが国はこののち一気に開国に向けて180度、舵を切ることになります。

この事件が巻き起こした幕府諸藩の「黒船大ブーム」については前回お話ししましたが、言い換えればこれは「舶来兵器大ブーム」の到来でもありました。なにせこの時点で、我が国が所有していた兵器といえば、青銅製の大砲に火縄銃レベルでしたから。
この後の細かい歴史的事件を挙げてたらキリがないけど、1864年の馬関戦争で長州は律儀に「攘夷!」を実行して四国連合艦隊にコケ負け。砲台は全面破壊され下関は砲撃されるし、あやうく彦島は英国に租借され第二の「香港」にされる寸前まで行きました。その前年の薩英戦争では英国艦隊に鹿児島が砲撃され、市街地を焼かれるし…彼我の実力差を見せつけられて雄藩は一気に「舶来上等」で藩論は攘夷から開国、さらに倒幕へと進み…この後のことはご存じの通りなので省略します。

本編カット
火縄銃が近代兵器に一挙バージョンアップ

幕末の「上等舶来」兵器の大ブームはある意味「第二の鉄砲伝来」でもありました。
なにせ徳川泰平の約三百年間の我が国は、鉄砲という兵器の製造も保持も幕府によって相当厳しく制限されていたから、技術的にも火縄銃レベルからほとんど進歩するはずはない。そこへ欧米から新式小銃がなだれ込んでくれば、幕末動乱はヒートアップするのも当然ですね。
…ところでこの時期、幕府や雄藩へ大量に流入した小銃は種類も実に多種多様で(銃砲マニアの方は別として)混乱しやすいのですが、一応簡単にこの時点で輸入された小銃の最終的な進化スペックを解説しておきます。
ちなみに「ライフル銃」と呼ばれるものは厳密には小銃の種別ではありません。そもそも「ライフル」とは銃の銃身の内側に刻まれた螺旋条のミゾのことで、これによって撃ち出された弾丸の命中精度はミゾなしのもの(滑腔銃身)に比べて格段に向上します。

実際この時代は、ことに欧州での小銃改良&進化が著しい時期でした。点火装置はマッチロック(火縄)がフリントロック(火打石)に、そして19世紀にはパーカッションロック(管打ち)へと進化。また弾丸の装填も「前装式」つまり銃身の先端から弾を込める方式に代わって「後装式」へと進化していきます。さらに弾丸自体の改良も…。
まあ、これをごく単純にまとめると、戦国の火縄銃が「火薬と弾丸を別々に銃口から詰め、棒で突き固めたのちに、銃身へ火縄を突っ込んで爆発させ弾を飛ばした」のが、19世紀半ばの小銃は「弾丸は雷管と一体になり、これを手前から銃身にセットしたら、撃鉄を打ち込み点火爆発、ライフルを切った銃身で命中精度と飛距離は格段に向上して発射!」させる形式に取って替わられた…そんな風にお考え下さい。ちょっと喩えは極端すぎるけど。

在庫一掃セールで戦争?

と、ここまでは、さすが「上等舶来」兵器の面目躍如と言いたいところなのだけど、実は(残念ながら?)欧米から幕末日本へ最初に、しかも大量に持ち込まれたのは、ライフルが施されていない滑腔銃身で、しかも前装タイプの旧式銃(ゲベール銃)でした。実際に戊辰戦争で幕府軍と薩長官軍が撃ち合ったのもこの銃が主流だったようです。
最初にこの銃をオランダから輸入したのは1830年代だったらしいのですが、後装式でライフルが小銃の主体となった時代に、なぜこんな旧式型落ち小銃を1868年の戊辰戦争の時期にまで重宝したかというと、一番には「旧式で値崩れして安かったから(一丁で5両程度)」、そして「銃の仕様と操作法が火縄銃と共通する部分が多く、使い勝手が良かったから」という理由もあったようです。高性能必ずしも尊からず…我が国には我が国なりの事情もあったのですね。

また、同じく「型落ち無用の長物」として在庫一掃で戊辰戦争前、大量に日本へ持ち込まれた例がイギリス製エンフィールド銃(前装式)でした。
なぜ在庫一掃になったかというと、実は「アメリカ南北戦争が終結して(1865年)小銃が大量に余ったから」。そしてこれを大量に我が国へ売りさばいたのが、長崎グラバー邸で知られる英国商人トーマス・グラバーでした。幕末時代劇では坂本龍馬の盟友、あるいは薩長連合の後見人のように思われているグラバーですが、彼は別に薩長土肥の官軍だけに武器を調達していたワケではなく、幕府にも均等に武器を調達していました。まさしく理想的な(?)死の商人(勝ち組)だったワケです。

と、ここまで言うと誤解を招くかもしれないので言い訳しますが、もちろん幕末日本は単に「中古兵器の処分場」だったワケではありません。よく幕末時代劇に登場する当時の最新式小銃であるミニエー銃(前装式)やスナイドル銃(後装式)、スペンサー銃(後装式7連発)などなど、さながら最新兵器の見本市というか実験場のごとく、戊辰戦争から先の明治初頭にかけて、戦場でさまざまな上等舶来の兵器が登場します。
本稿ではスペースも足りないので「小銃」を主に取り上げましたが、たとえば大砲にしたって、馬関戦争のときには四国連合艦隊を相手に青銅製大砲で対抗して大惨敗した(砲台まで根こそぎ占領されました)長州がそのわずか4年後に、戊辰戦争(上野戦争)では購入した英国製アームストロング砲で本郷の加賀藩上屋敷から上野の寛永寺を砲撃、立て籠もっていた幕府側の彰義隊を一気に壊滅させているのです。

土方元副長が最期は洋装で散った美学の裏?

と、ここまでお話しすると「上等舶来の欧米兵器」の強大な戦力こそが、幕末明治初頭の戦の勝敗を決する鍵だった…という結論に達しがちですが『壬生義士伝』読者の方なら、歴史がそんな算術のロジックで決するほど単純なものでないことはお分かりのはずです。
以前、この「~異聞」でも取り上げましたが、野戦…たとえば戊辰戦争初頭の、淀千両松の戦などでは、緒戦での撃ち合いなら火力の差は相当のハンデだけれど、いったん斬り合いの乱戦になったら、個々の兵の力量と戦意がモノをいいます。ちなみに淀千両松の戦での勝敗が、官軍の掲げた「錦旗」錦の御旗で幕府軍の戦意を削いだのが決め手になってしまったのも、戦は火力が全てでないことを証明した点では皮肉と言えば皮肉ですね。

本編カット 本編カット

ついでに、この逆の例も最後に挙げておきましょう。それが本編にも登場する「奥羽越列藩同盟」に参加した長岡藩が、最後まで頑強に官軍に抵抗した史実なのですが…弱小藩と侮った官軍に対し、長岡藩側はアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃(軍用カービン)など最新兵器をこれでもかと投入して徹底抗戦を仕掛け反撃。一時官軍は大混乱に陥り、長岡は奪回されます(最終的には1868年9月に列藩同盟側は降伏)。
まあ、戊辰戦争全体からいえば、この長岡での反撃は局地的勝利でしかないのですが、なぜこのケースが面白いかというと、この勝利の裏には(一般には、ほとんど知られていませんが)スネル兄弟という武器商人がいて、彼らが奥羽越列藩同盟側に立って兵器調達を強烈にバックアップしたからなのです。要するに、先に挙げた「坂本龍馬の盟友」商人グラバーと真逆ですね。
この「反官軍」商人スネル兄弟は、この前歴がもとで新政府から逆賊外国人の扱いを受け、明治以降に兄弟とも消息を絶ちました(一説には、兄は明治政府の手で暗殺された、という説もあり)。「勝ち組」グラバーがその後に岩崎財閥の相談役となり、明治新政府から勲二等に叙勲されたのと対照的です。

本編カット

ちなみにこの兄弟は(経歴も業績も謎が多いのですが)日本語が堪能で奥羽越列藩同盟内部にも深く関与していたと記録されています。兄のヘンリーに関しては和装の肖像写真も残っており、日本文化にも造詣が深かったらしい…ただ、なぜ「反官軍」で列藩同盟側に加担したのか、その強烈(?)な思想的背景については(なにせほとんど史料もなく)不明です。けれどなぜかその遺影が、箱館戦争で最期を遂げた元新選組副長・土方歳三の、かの有名な遺影(こちらはスネル兄とは逆の洋装ですが)と雰囲気が重なる…ような気がするのは偶然でしょうか。
ひょっとしてこの兄弟武器商人も、『壬生義士伝』中の表現を借りれば土方が「徳川の殿軍を演じて散った」のと同様、「上等舶来の因業な毒を」日本へ仕込んだオトシマエをつけて散ったのかも…などと勘繰るのは…やはり少々無理筋の深読みですね。

と、いうわけで『壬生義士伝異聞』はいったん、ここで筆を置きましょう。
いよいよこの6月からは、新章「居酒屋『角屋』の親父2」配信を開始します。
期待してお待ちください!

イラストカット
2022.04
『壬生義士伝』執筆状況

「居酒屋『角屋』の親父2」
執筆完了 現在鋭意編集作業中

配信開始は 6月3日(金曜日)より!

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