壬生用語辞典

第1話
(単行本第1巻)P001〜P049

鳥羽伏見の戦
鳥羽伏見の戦
(とばふしみのいくさ)

慶応4年1月3日から6日にかけて、旧幕府軍と薩長軍が激突した戦で、明治維新につながる「戊辰戦争」最初の激戦です。鳥羽街道(京都と淀・伏見をつぐ街道)と、伏見市街の両方で勃発したので、こう呼ばれます。
このとき伏見奉行所警護役として詰めていた新選組は薩摩軍の砲撃を浴びて炎上。指揮を執っていた土方歳三は斬り込み部隊を結成して市街戦に突入しました。
結局、戦の大勢は薩長軍に有利なまま、新選組を含む旧幕府軍は淀方面に後退して、吉村貫一郎最後の晴れ姿が披露される「淀千両松での激戦」へと続きます。
(この激戦の模様は、第7巻「池田七三郎編」を、ぜひ御覧下さい)

→初出 第1巻p001

南部
南部
(なんぶ)

いまの岩手県中部から、青森県東部(いわゆる「下北」まで)を所領としていた南部氏にちなんだ地名です。江戸時代には「南部藩」と呼ばれました(江戸末期に「盛岡藩」と改名)。居城は盛岡城。ちなみに南部家の家紋は、鶴が向かい合った模様から「対い鶴(むかいつる)」と呼ばれています。
南部家は甲斐源氏の血をひく、鎌倉時代から続く名家で、石高は20万石といわれていましたが、幕末には財政的に相当苦しかったようです。吉村貫一郎が脱藩せざるを得なかったのも、そんな家中の懐事情があったのですね。

→初出 第1巻p011

公方様と会津公
公方様と会津公
(くぼうさま・あいづこう)

「公方」つまり「公の方」といえば、近代以前では「統治権をお持ちの方」という意味で『壬生義士伝』の時代では当然、幕府の最高権力者だった徳川慶喜のことです。厳密に考えると…つまり吉村貫一郎がこの言葉を吐いた時点、鳥羽伏見の戦が勃発した慶応四年正月には…すでに「大政奉還」で慶喜は将軍ではないのだから、公方様と呼ぶのはおかしいのですけれど、新選組隊士であった吉村は佐幕側でしたから「元公方様」なんて呼ぶはずもない!
「会津公」はもちろん第九代会津藩主・松平容保のこと。孝明天皇からの信頼も深く、京都守護職として新選組の後ろ盾ともなりました。なのに結局、戊辰戦争では朝敵の汚名を着せられ、悲劇的な結末を迎えます。詳しくは『壬生義士伝』斎藤一編(第9巻)ラストをぜひ、御覧下さい!

→初出 第1巻p022

脱藩
脱藩
(だっぱん)

「藩籍を勝手に抜ける」武士の行為が脱藩です、要するに「職務放棄」。吉村貫一郎は足軽(二駄二人分扶持)身分ながら、一応は盛岡藩に士籍を置いていましたから、勝手に出奔すれば脱藩ということになります。
江戸時代初期の脱藩はご法度で、家門は断絶、下手すれば討手を差し向けられるほどの厳罰だったようですが、勤皇思想が大流行した幕末には(あまりに脱藩者が増えたこともあったようで)事実上、下級武士の脱藩は勝手放置となってしまったようです。
そもそも新選組にしても、こうした脱藩浪士たちが数多く参集して出来上がった組織なのですから。有名どころを数えても、吉村貫一郎のほかに山南敬助(仙台藩)、永倉新八(松前藩)、斎藤一(明石藩)、藤堂平八(直参旗本)などなど…少々出自が怪しい方もいますが、キラ星の如く並んでいますね。

→初出 第1巻p024

帰参
帰参
(きさん)

武士の「帰参」といえば「主家の元に戻ること」。吉村貫一郎の場合は一度、脱藩した盛岡藩へ戻ることです。ただし戦国時代ならいざ知らず、武家諸法度で縛られた江戸時代に帰参が認められるのは、たとえば仇討の旅で一度藩を離れた者が、見事に本懐を遂げて帰る…といったケースくらいでした。
ちなみに江戸期には(吉村のような足軽ではまず考えられませんが)出奔したり、不手際で解雇された武士に、主家が「奉公構え」を打つ場合もありました。これを宣告されると、他の大名家も一切、その武士を召し抱えることはできない…武士としては一種の「死刑宣告」のようなものです。

→初出 第1巻p027

彦根屋敷
彦根屋敷
(ひこねやしき)

彦根藩の大坂屋敷は過書町(今の北浜)あたりにありました。『壬生義士伝』によれば、盛岡(南部)藩邸の隣だったようですが、問題はなぜ頼ってきた吉村を藩兵たちは「彦根屋敷に」突き出そうとしたかです。彦根藩といえば幕末、藩主であり幕府大老にもなった井伊直弼…「安政の大獄」を発動した人物で有名。つまりガチガチの佐幕藩で、本来なら新選組隊士の吉村貫一郎を保護してくれる筈ですから。
実はこの時期、つまり戊辰戦争勃発の時点では、譜代筆頭にもかかわらず藩論は「新政府側」つまり薩長に寝返っていたようなのです。こうなると話は別。「敵である」幕軍の吉村を官軍側に引き渡してもおかしくありませんね。
ちなみに幕末の敵味方関係は相当混乱しており、こういうケースは珍しくありません。

→初出 第1巻p028

勘定方
勘定方
(かんじょうかた)

現代で言えば「財務担当」。盛岡(南部)藩の家老・大野次郎左衛門は大坂の「蔵屋敷差配役」といいますから「大坂支社財務担当課長」といったところでしょうか?
大野家の家格は四百石取り、盛岡(南部)藩では中級クラスの「平士」ですが、幕府を含め大概どこの藩でも、勘定方を勤める者はひとかどの切れ者でした。
そもそも財務は算術にも経済運営にも長けていないと務まらず、家格が地位を決めてしまう武家社会でも例外的に「実力社会」であったといわれています。

→初出 第1巻p028

組付
組付
(くみつき)

「吉村(貫一郎)は、もともと拙者の組付の者にござる」と蔵屋敷差配役である大野次郎左衛門が告げるシーン。この「拙者の組付(くみつき)」は、要するに「私の組の配下」という意味です。
盛岡(南部)藩では、千石取り以上の武士は「高知衆(たかちしゅう)」それ以下は「平士」と呼ばれていました(実際の区分はさらに細かいのですが、ここでは省略)。そして平士中でも百石取り以上は「本番組」で、この「組」には結構な数の足軽(あるいは中間・小者といった士分を持たない者も含め)配下を抱えていたわけです。

→初出 第1巻p034

尊王攘夷と勤皇忠国
尊王攘夷と勤皇忠国
(そんのうじょういときんのうちゅうこく)

吉村貫一郎が、大坂の南部藩邸へ「帰参願い」を申し出たとき、口にした言葉です。意味は…相当有名ですからあえて言うまでもないでしょうが「君主(この場合は天皇)を尊び、夷狄(この場合は西洋列強)を退ける」こと。「勤皇忠国」も、ほぼ同じで「天皇に仕え、国に忠誠を尽くす」といった意味ですね。
「尊王攘夷」という語そのものは古代・春秋戦国時代まで遡りますが、こいつが一般的に使われるようになったのは、水戸学(水戸藩を中心に流行した天皇中心の国学)が幕末、全国的に広まった影響のようです。
問題はなぜ(元?)新選組隊士の吉村がこの言葉を口にしたのか、です(新選組は「勤皇」勢力と真逆、「佐幕」の立ち位置でしたから…このあたりは別稿で)。
実は吉村が敗走して大坂の南部藩屋敷へ駈け込む直前、彼は淀千両松の戦場で、官軍と激戦を繰り広げているのです。
だからこそ「憎き薩長の賊ばらが錦旗ば奉じて…」つまり、連中は「ニセ官軍」だ、一度は「官軍を名乗る賊軍に」敗北したが南部藩に帰参して、もう一度戦いたいと申し出たのです。
ちなみにこの淀千両松での吉村の壮絶な奮戦ぶりは、第7巻(池田七三郎編)で、じっくりと描かれています。御期待下さい!

→初出 第1巻p045&046

勤皇と佐幕
勤皇と佐幕
(きんのうとさばく)

前項で吉村貫一郎が口にした「尊王攘夷」「勤皇忠国」についてお話しましたが、俗に「勤皇」の逆の立場を「佐幕」と呼ばれています。つまり「幕府を補佐する」勢力ですね。実は新選組がお預かりとなっていた(松平容保侯を藩主と仰ぐ)会津藩も、吉村が帰参しようとした南部藩も、この佐幕勢力に所属していました。
じゃあ、なんで吉村は佐幕勢力の南部藩邸に駆け込んだのか?
たまに誤解されるので改めて強調しておきますが「佐幕」勢力は幕府を含め「勤皇」思想を取り立てて目の仇にしていたワケではありません。そもそも佐幕藩だって「尊王佐幕(天皇を奉じ、幕府を補佐する)」なんてスローガンを叫んでいたし、それに時の天皇(孝明天皇)ご自身がガチガチの佐幕派だったのですから。
要するに両者の対立は、あくまで「ビーチフラッグ」のようなもの。天皇(錦の御旗)の奪い合いをやってたワケですね。だから「真の勤皇忠国のため」佐幕藩の南部藩に帰参を申し出ても、何ら不思議はなかったワケです。
…ただ結局、戊辰戦争で奥羽列藩同盟を組んで薩長と対決した南部藩は「ほとんど戦わずして」負けてしまいましたから、もし仮に吉村が帰参を許されていたとしても、活躍する場があったかどうかは……。

→初出 第1巻p046

壬生浪
壬生浪
(みぶろ)

呼び方としては「みぶろ」だったのか「みぶろう」が正しいのか…どうでもいいことではありますが。ちなみに幕末は文久三年(1963年)江戸から将軍家茂上京の警護役として上ってきた寄せ集め浪人たちの一部(京都残留組)が洛南の壬生村(現在の京都市中京区)の八木家に寄宿したのが新選組の始まりですが、なにせ、まだ会津公お預かりの身分になる以前の事だし身なりは貧相でボロボロ、なので京童たちは「みぼろ(身ボロ?)」とも呼んでいたそうです。
そもそもこの言葉、正式名称でも何でもなく、新選組隊士への蔑称だったのだから、言い捨て感が強い「みぶろ」で正しいのでしょう、おそらく。当然、戦に負けて敗走し、旧主家に転がり込んできた吉村貫一郎と相対した大野次郎右衛門も、かなりの嫌悪感と侮蔑を込めて、呼び捨てています。

→初出 第1巻p046

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