壬生用語辞典

第3話
(単行本第1巻)P085〜P119

御高知衆
御高知衆
(おたかちしゅう)

第1回の解説「組付(くみつき)」の項でも解説しましたが、盛岡(南部)藩では、千石取り以上の武士は「御高知衆(おたかちしゅう)」あるいは「高知衆(たかちしゅう)」それ以下は「平士」と呼ばれていました(実際の区分はさらに細かいのですが、ここでは省略)。
そして平士中でも百石取り以上は「本番組」で、この「組」には結構な数の足軽(あるいは中間・小者といった士分を持たない者も含め)配下を抱えていたわけです。二駄二人扶持とはいえ、吉村貫一郎は士分ではあったけれど、その貧しさといったら…確かに御高知衆には想像もできまい、と呟きたくなるでしょうね。

→初出 第1巻p093

お代物
お代物
(おだいもつ・おでえもつ)

「おだいもつ」…南部訛りだと「おでえもつ」となるわけですが…一般的に「お代物」(「おだいぶつ」、もしくは単に「だいぶつ」とも発音していたようですが)といったら「品物」全般を指す言葉で、稀には美しい娘や遊女を指す隠語にも使われました。「こりゃ大した代物(しろもの)だ!」などという使われ方は現在にもあります。
ただし吉村貫一郎の独白では、これを「おカネ」の意味で使っていますね。なぜ「品物」が「おカネ」を指す言葉に化けたのか…は定かではないのですが、一般的に「武士は食わねど高楊枝」というくらい気位も高いし、金銭に関わる単語を口にするのは卑しい、という気風から「ゼニ」などという直接表現を避けるようになったのかもしれません。
もっとも、吉村の金銭感覚は武士には珍しいくらい直截的でしたが…そりゃ二駄二人扶持の貧しさから故郷を出奔した身からすれば当然! だったのでしょう。

→初出 第1巻p097

御徒士長屋
御徒士長屋
(おかちながや)

南部藩の下級武士たちが、所属する組単位で居住していた長屋のこと。実はこの「徒士(かち)」というのは、戦国時代以降には「足軽」つまり歩兵たちを指揮する「下士官」という役割だったようで、れっきとした士分。本来、武士としては扱われない足軽とはきっちり区別されていました。…けれど、江戸時代後期になると、このあたりが曖昧になったらしく(足軽を士分として扱う藩もあったし)、立ち位置も呼び方も、各藩によってバラバラでした。
南部藩でいえば、吉村貫一郎のような薄給の下級武士たちをまとめて呼称したもの、と考えるのが適当でしょう。

→初出 第1巻p097

北辰一刀流
北辰一刀流
(ほくしんいっとうりゅう)

知名度抜群、数ある流派の中でもナンバーワン、といえる剣術の流派。「一刀流」そのものは江戸初期、幕府が剣術指南役として召し抱えたことで隆盛を誇ったわけですが、江戸末期に千葉周作が一刀流各派を統合し、江戸お玉ヶ池に玄武館道場を構えてから一気に評判が沸騰し、門人は最盛期で六千人! というから驚きです。
ところで、なぜ南部藩に北辰一刀流の道場があったのかといえば、実は玄武館が、各藩や旗本へ積極的に剣術指南委託を行っていたからです。一番有名なのは水戸藩ですが、他にも30以上もの藩に門弟が派遣されたようですから、吉村貫一郎も南部に派遣された高弟と太刀を交え、剣術の才を認められて免許(目録)を授けられたのでしょう。

→初出 第1巻p099

元服
元服
(げんぷく)

要は現代でいう「成人式」ですが、注意すべきは年齢的に6歳から16歳あたりまで、元服する年齢は人によってバラバラだったこと。親が適宜、決める習わしだったけれど、本人が6歳(しかも数え年)で「元服する!」といえば基本的には可能だったのです。周囲が認めたかどうかは別として。
江戸時代だと、基本的に男子は前髪をそって月代(さかやき)にする。女子の場合は(女にも元服があったのです!)お歯黒(鉄漿)をつけ引眉をする…つまり眉を剃る…、髪を丸髷などに換える、といった作法が執り行われました。

→初出 第1巻p103

藩校
藩校
(はんこう)

江戸時代、各藩に設けられていた公式学問所のこと。基本的には士分以上の子弟だけが対象でした。南部藩では「明義堂(慶応元年に「作人館」と改称)」が藩校とされていました。教育方針は、おおむね水戸学を基本としていましたから、神道・国学を中心とした学問と、武道を尊ぶ「文武両道」路線だったようです。
下級武士ながら。文武共に抜群の才をもつ吉村貫一郎を藩校の「先生」に抜擢したくらいですから、かなり融通のきく革新的な校風も持ち合わせていたのでしょう。

→初出 第1巻p104

宿下がり
宿下がり
(やどさがり)

奉公人が暇をもらって、親元(実家)へ帰ること。「宿下り(やどおり)」とも呼ばれました。吉村貫一郎の場合は出奔(脱藩)に際して、妻みよと二人の子供を雫石の実家へ宿下りさせていますが、これは「藪入り」のような「一時帰郷」ではなく、そのまま盛岡から郷里へ退去させる、ということです。ひょっとすると、吉村の出奔の咎が妻子へ及ぶのを防ぐ目的があったのかもしれません。

→初出 第1巻p109

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