壬生用語辞典

第4回
(単行本第1巻)P120〜P145

東京大正博覧会
東京大正博覧会
(とうきょうたいしょうはくらんかい)

元新選組隊士・竹中正助(大正時代には、神田の居酒屋「角屋」の親父になっていました)が語った、大正初期に開催された大博覧会です。幕末新選組とは時代がずれますが、せっかくなので少々、触れておきましょう。
主宰したのは当時の東京府で、会場は当時の上野恩賜公園。エスカレーターや上野不忍池を横切る全長4百メートルのケーブルカーなど、当時の最新テクノロジーがお披露目されて話題沸騰したようです。
科学技術産業だけでなく、演芸から美術、衛生などなど、展示も各分野にわたり、さらに当時では珍しかった美女コンパニオンも登場しました(「美人島旅行館」というパビリオンまであったとか!)。
開催期間は大正3年(1914年)の3月から7月末の4カ月間で、総入場者数は750万人! 当時としては破格の大盛況でした(ちなみに1970年の大阪万博は、開催期間約6カ月で総入場者数は約6500万人)。
こののち、日本は空前の成金景気に沸くことになります。ただしその大好況の原因となったのは、皮肉にもこの博覧会の終了直後(同年8月4日)にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦でした。

→初出 第1巻p125

ダット一号
ダット一号
(だっといちごう)

前項(東京大正博覧会)に出品された、純国産の自動車第一号です(脱兎号、あるいはDAT号、と呼称されていたという記録もあります)。
当時の記録によると、エンジンはV型2気筒10馬力で、最高時速は32kmだったそうです。
ちなみにダット(DAT)は、この車の開発に携わった田健次郎、青山祿郎、竹内明太郎のイニシャルを並べたものだったとか。のちに日本産業株式会社(日産自動車)のブランド「ダットサン=DATの息子、という意味」として継承されました。
実は日産の新興国向け自動車ブランドとして、現在に至るまで「ダットサン」の名前は生き続けています。

→初出 第1巻p129

彰義隊
彰義隊
(しょうぎたい)

1868年(慶応4年・明治元年)4月、官軍に対して旧幕府軍が江戸城を無血開城して恭順の意を表したのですが、これに抵抗した幕臣たちが結集したのが「彰義隊」(命名の由来は「義を彰(あきらか)にする隊の意)でした。 同年7月、上野寛永寺に籠って官軍と激突した「上野戦争」で有名になりましたが、最初は幕臣たち百名程度で組織されたこの彰義隊も、この時点では(応援する江戸町民たちまで加わって)数千人規模に膨れ上がっていたようです。 結局、官軍による上野山への集中砲火が効いて、この彰義隊は四分五裂となって敗走することになります。この砲撃に使用されたのが当時の最新式アームストロング砲で、本郷から彰義隊の砲台陣地がある上野山王台まで、正確に着弾したとか。ちなみにこの作戦を指揮したのは大村益次郎、のちに帝国陸軍の父とも言われる人物です。

→初出 第1巻p130

池田屋騒動
池田屋騒動
(いけだやそうどう)

「池田屋事件」とも呼ばれ、当時の世間に新選組の名を一気に知らしめたという『壬生義士伝』読者、新選組ファンにはあまりにも有名な事件ですね。
1864年(元治元年)7月、京都三条の旅館・池田屋に集結していた長州・肥後・土佐を中心とした尊王攘夷派志士たちを、近藤・沖田ら十名の隊士たちが襲撃したのが騒動の皮切りですが、結局この騒動で襲撃・捕縛(死亡含む)されたのが志士だけで40数名、戦闘に巻き込まれた町民まで含めば50名を超えるのですから、いかに新選組隊士たちの奮闘ぶりがすさまじかったか、想像がつきます。
この事件は志士たちが「京都を火の海にし、その隙を縫って天皇を拉致、長州へ遷座させる」大陰謀を企てていたことを新選組密偵が突き止めたのが発端とされていますが、どうもこの容疑自体が、新選組側のでっちあげ(逮捕尋問した志士・大高俊太郎に嘘の自白をさせた?)という説が有力です。

→初出 第1巻p137

郷士
郷士
(ごうし)

江戸時代の身分制度では「武士階級に所属している(士分)が、その身分のまま農業(稀には商業)に従事していた者」を指します。
郷士の出自はさまざまで、戦国時代の武士が江戸時代の大名に士官できなかった(主君が没落、改易された場合など)、地元の土豪や豪農が何らかの理由(士分の株を買うなど)で郷士に取り立てられた場合などがあります。
ちなみに『壬生義士伝』で登場する壬生村の八木家(当主・八木源之丞)は越前の戦国大名だった朝倉義景を祖先に持つという、由緒正しい家柄だったそうです。

→初出 第1巻p138

真宗・西本願寺
真宗・西本願寺
(しんしゅう・にしほんがんじ)

戦国時代には織田信長に反旗を翻し、大坂では石山本願寺が徹底抗戦した(石山合戦)浄土真宗(一向宗)ですが、そののち豊臣秀吉による勅許を経て京都へ本願寺が移転。さらに徳川幕府成立後に宗門内部での争いが本格化し、1603年(慶長8年)には本願寺は東西に分裂します。
新選組が一躍有名となり、大所帯になったため1865年(慶応元年)に壬生の八木邸から屯所を移転したのは、京都七条堀川にあった真宗本願寺派の本願寺のほうでした。真宗分裂で六条烏丸に建立した真宗大谷派の本願寺(東本願寺)と区別するため、こちらは西本願寺と呼ばれています。
一説には戦国末期・石山合戦以来の(毛利家が石山本願寺に兵糧を提供したりした)長州との繋がりを断つため、新選組をここに駐屯させたともいわれています。

→初出 第1巻p138

守護職・所司代
守護職・所司代
(しゅごしょく・しょしだい)

正確には「京都守護職」と「京都所司代」ですが、実は守護職の方は1862年(文久2年)に急遽、新設された役職です。
もともと京都を所轄していたのは京都所司代だったのに、なぜ幕府の出先機関がダブって設置されたかというと、ひとえにこの時期、勤皇派志士たち(浪人だとか、かなり出自の怪しい連中を含め)による騒乱事件が頻発していたからですね。
組織的には京都守護職が京都所司代と京都奉行所およびその配下(主に直参旗本で組織された京都見廻組)を管轄、さらに独立部隊である浪人部隊「新選組」を直接指揮する、という形になります。
組織が複雑になると、指揮命令系統もバラけそうですが、実は守護職の会津公松平容保と所司代の桑名公松平定敬は実の兄弟だった関係もあって、この京都防衛体制は(将軍後見職の一橋慶喜を含め、一会桑政権などとも呼ばれます)強固なものになりました。
もっとも、下部組織のつばぜり合いは仕方ないわけで、特に直参の見廻組VS浪人出身の新選組の功名争いは相当に熾烈だったようです。

→初出 第1巻p143

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