「一刀流」そのものは戦国時代末に編み出された剣技の流派で、のち江戸時代に入ると、さまざまな分派が生まれました(幕末の有名な北辰一刀流なども、その流れを汲んでいますね)。
一刀流の創始者は伊藤一刀斎といわれていますが、その弟子の小野忠明(神子上典膳)とその系譜が継承した一派が「小野派一刀流」と呼ばれました。
のちに小野忠明が将軍家の剣術指南役に抜擢されたことから、隆盛を誇ったそうです。
ちなみに伊藤一刀斎が創始した時代には、剣術のほか槍術もあったとも伝えられています(実際、戦国時代の武器といえば剣より槍がメインでしたから)。
また、小野派は「稽古に(怪我しやすい木刀以外に)竹刀を採用した」ことが全国諸藩で大隆盛を誇った理由ともいわれています。
→初出 第1巻p148
剣術の伝位として「免許皆伝」「目録」などという用語はよく目にします。一応ここで整理しておきましょう。
流派によって用語は多少違いますが、奥義を全て伝授された剣士は「免許皆伝」、まだその域に達していないけれど、ある程度の技を習得すれば「目録」が与えられる、ということでした(流派によっては大目録、中目録、小目録などとランク付けされる場合もあったようです)。
なぜ「目録(英語でいえばカタログ)」と呼ばれていたかといえば、要は習得した奥義なり技量を箇条書きに書き出して(覚書として)剣士に与えたからですね。
→初出 第1巻p149
新選組でも一、二を争う剣士・永倉新八が免許皆伝を許された剣術の流派です。俗にも「力の剣術」といわれ、竹刀による稽古であっても渾身の力を込めて振り下ろす打突がきわめて特徴的だったようです。また神道無念流の居合は「立ち居合」と呼ばれ、あくまで立ち構えからの技が本義で、坐った状態で剣を振る所作は一切なかったとのこと。
『壬生義士伝』本編第1巻でも、この永倉の繰り出す神道無念流の剣技と、吉村貫一郎の使う北辰一刀流免許皆伝の技が激突する真剣勝負が、息を呑む迫力で描かれています。
→初出 第1巻p151
日本刀の部位はさまざまに分かれていますが、「鎺元(もしくは単に「鎺」)」は刀の鍔(つば)の近く、「物打ち」は刀身の先端近くで、一番切れ味がよい部位を指します。
本編では竹中平助が「鎺元から物打ちまで使って」永倉新八が平助の腹を斬り抜けた、といっていますが、要するに永倉は刀身の根元から切っ先まで使い切って、竹中の腹を撫で斬りにした…ということですね。
たしかに、木刀で打たれた割には痛くなかったのも道理で、これが真剣だったら胴体は真っ二つに切断されていたでしょう。怖ろしい手練の技です。
→初出 第1巻p159