壬生用語辞典

第9回
(単行本第2巻)P029〜P052

泉涌寺
泉涌寺
(せんにゅうじ)

現在の京都市東山区にある、俗に「御寺(みてら)」とも呼ばれる真言宗の由緒あるお寺です。『壬生義士伝』本編では、勘定方の酒井兵庫が行方知れずになった折に、この泉涌寺の付近で彼と行き会った隊士がいて、それが酒井の新選組からの脱走を決定づける証拠となってしまいました。
酒井は「大坂まで公用…」と言っていたらしいのですが(本編の隊士のセリフを借りるなら)そこは伏見街道の入口…。伏見街道は京都五条通りと伏見を結んでいますから、酒井が伏見から舟でさらに淀川を下り、大坂へ向かうことにさほど不自然はなさそうなものですが、実はよく確かめると、新選組の屯所(西本願寺)から伏見街道へ抜けるのなら、わざわざ泉涌寺あたりまで移動するはずがないのです。 つまり西本願寺から東へ向かって鴨川を渡る…まではいいけど、現在のJR奈良線の東福寺駅あたりからさらに東に進まないと泉涌寺には着きませんから、これでは街道を越えて東へ行きすぎ。何かヘンだと判ります。
ちなみにこの泉涌寺は(特に鎌倉時代以降)天皇家と縁が深く、明治以降の廃仏毀釈以前まで天皇家の菩提寺として歴代天皇の位牌が祀られていました。

→初出 第2巻p035

筆頭監察
筆頭監察
(ひっとうかんさつ)

新選組は西洋式軍隊制度の影響が見られる…とも言われますが、10人程度で編成された各隊(一番組から十番組まで)を統括する隊長とは別に、内務を監査する監察方(諸士調役、つまり外部の探索方と兼務することも多かったようです)が置かれ、そのトップが筆頭監察でした。
ちなみに篠原泰之進が新選組に参加して監察方を勤めたのは慶応元年(1865年)と、かなり新参のようですから、その実力と人望はかなりのものだったと思われます。ただし、彼は慶応三年には新選組を脱退して御陵衛士に参加、さらに鳥羽伏見の戦では薩摩軍に参加して新選組と戦うことになってしまいますが…。

→初出 第2巻p042

探索方
探索方
(たんさくかた)

要するに新選組の「諜報部」=スパイ組織ともいえる部門と考えた方がてっとり早いでしょう。実は新選組の役職では「諸士調役」というのがそれに該当するのです。
新選組の探索方の情報収集能力は、彼らが壬生浪士組と呼ばれていた当初から極めて高く、その能力がいかんなく発揮されたのは、かの有名な「池田屋事件」で過激派浪士・古高俊太郎を捉えて陰謀を察知、浪士たちの会合を襲撃した一件などで証明されていますね(ただし陰謀自体の信ぴょう性は、現在では疑問視されていますけど…)。
ちなみに本編の主人公・吉村貫一郎も剣術師範方のほか、この諸士調役も兼任していました。本編中ではあまり強調されてはいませんが、第5巻で池田七三郎が敵方となってしまった御陵衛士たちと、それとは知らずに接触してしまったエピソードでは、吉村はきっちりと池田を追跡して、情報収集を行っています。

→初出 第2巻p044

局中法度
局中法度
(きょくちゅうはっと)

本稿コラム『壬生義士伝異聞』の第5回「バイトしたら切腹!」の項でもご紹介したのですが、幕末に入り黒船来航の時代となると勤皇の志士は暴れまくり、対する佐幕側のエース・新選組としても血の気の多い浪士たちを集めた以上、内部の規律維持も苛烈になった結果「局中法度」五カ条が定められました。並べてみると…
一.士道ニ背キマジキ事
一.局ヲ脱スルヲ許サズ
一.勝手ニ金策イタスベカラズ
一.勝手ニ訴訟取リ扱ウベカラズ
一.私ノ闘争ヲ許サズ
要するに「武士らしからぬ行動(たとえば敵との立ち会いで背を向ける、など)を取るな!」「新選組を勝手に脱退するな!」「勝手に金策しバイトに手を染めるな!」「勝手に訴訟ごとに首を突っ込むな!」「私事でケンカするな!」…以上の項目に背いたら、問答無用で切腹! という苛烈きわまりないルールです。
酒井兵庫の場合は第二項の勝手に「局を脱する」行動により処断されたのですが、さらに彼が「薩摩と通じていた」という咎まで重なったため、わざわざ屯所へ連れ戻されることなく、悲惨な末路を辿ることとなるのです…。

→初出 第2巻p046

摂州住吉
摂州住吉
(せっしゅうすみよし)

住吉郡…現在の大阪市住吉区の大部分(と、阿倍野区、住之江区、平野区、西成区の一部)を指す地域です。本書では、この住吉の「とある神社」に(場所は特定されていませんが)、新選組を脱走した元会計方の酒井兵庫が匿われていたそうです。

→初出 第2巻p047

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