壬生用語辞典

第11回
(単行本第2巻)P077〜P101

八木邸
八木邸
(やぎてい)

本編では何度も登場しますが、文久2年(1862年)に上洛した浪士組のうち、近藤、芹沢たちを中心とした13名が分宿したのが壬生村の八木邸です。間もなく浪士組は江戸へ呼び戻されますが、この13名は京都に留まります。そして翌年3月には「松平肥後守御領新選組宿」という看板を掲げ、晴れて新選組の屯所となりました。
その後慶応元年(1865年)には京都西本願寺に屯所は移転されますが、八木家当主の八木源之丞の人柄を慕い、多くの隊士たちが非番の折などにはここを訪れたといいます。

→初出 第2巻p077

幕府御用・講武所
幕府御用・講武所
(ばくふごよう・こうぶしょ)

現代でも「宮内庁御用達」などと使われるように「御用(あるいは御用達)」というと、「出入りの業者」を意味します。「幕府御用達」というのも同様で、普通なら「幕府に物品(あるいは資金)」を提供、融通する商人を指す…のですが、実はここで語られている「幕府御用」は、かなり意味が違います。「幕府御用」の「講武所」とは要するに幕府「公式」の「武術研修機関」と考えるべきでしょう。
…けど、そうなるとたとえば「江戸三大道場」などと称され名声を博した士学館(鏡新明智流)や玄武館(北辰一刀流)、練兵館(神道無念流)などの名だたる剣術道場は「幕府非公認」だったのか? という疑問がわきます。
実はその通りなんですね。これらはすべて「民間の道場」なワケです。

公式の「講武所」が幕府によって設立されたのは安政2年(1855年)で、なんとペリー来航よりも後…というより、黒船来襲に慌てた幕府が急遽、旗本や御家人の訓練育成のために設立したもので、それ以前に「幕府公設」の武術訓練機関なんか存在しませんでした。
要するに黒船以前の「泰平の世の中」に、そんな組織なんか不要! だったワケです。
もっとも、この講武所で重視されたのは剣術よりも、近代兵器を扱う砲術だったようで、慶応2年(1866年)には結局、幕府陸軍に吸収、砲術訓練所へと改組されてしまいますから、近藤勇もなまじ、講武所の師範に採用されなかったほうが良かったのかもしれませんね。

→初出 第2巻p090

三条室町
三条室町
(さんじょうむろまち)

「室町」と聞くと「室町幕府」を想像する方も多いと思いますが、実はそれで正解。足利尊氏の弟、直義の邸宅(三条坊門殿)が幕府開設当初、この地にあったと言われています。直義は(尊氏から権限を譲り受け)実質的に将軍として君臨していましたから、この辺りが「将軍御所(跡地)」だったということになります。
ちなみに江戸時代の三条といえば、名所は三条通り(東海道・西の拠点)と鴨川にかかる三条大橋で、歌川広重の「東海道五十三次」浮世絵でも有名です。

→初出 第2巻p101

鍵屋・出店
鍵屋・出店
(かぎや・でだな)

今回(第11話)では、吉村貫一郎が故郷に残した妻子にあてて送金する様子が描かれます。そういえば、銀行といった金融機関も郵便局もなかった江戸時代に、どうやって庶民はカネを送っていたのでしょう?
実はその鍵の一つが、この「出店」を経由した送金です。
「出店」(この場合「でみせ」ではなく「でだな」と読みます)とは「縁日の露天商など、きちんとした店を構えていない臨時の出張店舗」のことではなく、地方にある「支店」の意味です。だから当然、どこかに「本店」があります。

基本的に江戸末期にはかなり経済システムも発達しており、庶民がカネを別の地方(別の藩)へ送るには、二つの方法がありました。
一つは当時、全国津々浦々…とまでは言えないけど、かなりの地方をカバーしていた「飛脚」つまり運送業者に委託して小判などの現物を直接送る方法です。ただこの場合、途中紛失の危険性がありますね。飛脚が途中でカネをネコババするケースも考えられたし…いくら街道整備が進んだ江戸末期とはいえ、送金事故の可能性はつきまといました。
で、もう一つは両替商を使った「為替手形」による送金です。
吉村貫一郎は、京都三条室町にあった商家「鍵屋」で、このシステムによる送金を行っていたのでしょう。

本編に登場する「鍵屋」は南部藩御用達の両替商で、京都三条にあったのは「出店」だったようです。ここから振り出される為替手形を(飛脚を利用して)吉村の家族が受け取れば、それを持って本店盛岡の鍵屋で換金する。だから実際に現金(小判)は本支店間でやり取りされることはなく、あくまで帳簿上で決済されるだけ。安全性はグッと高まります。
ちなみに、この鍵屋という屋号の商家は架空のものではなく、実在してました。経営者小野一族は江戸、大坂、京都と幅広い支店網を持つ現在でいう総合商社で、盛岡では木綿商・古手商・酒造業も手広く営んでいたようです。

→初出 第2巻p101

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