壬生用語辞典

第13回
(単行本第2巻)P126〜P151

羽織袴
羽織袴
(はおりはかま)

要するに江戸時代、武士の「正装」です。 だから新選組隊士たちが羽織袴を着用して呼ばれたいうことは、それだけ重要な会合に召集されたということですね。 では普段、隊士たち(武士)はどんな格好で過ごしていたかというと…改めて『壬生義士伝』本編のカットにご注目下さい。 日常は(非番の時など)単に着物(小袖)を帯で留めただけの「着流し」が普通で、帯刀の際には袴着用が原則、勤務時(見廻りなど)では、小袖の上にかの有名な浅葱色の隊服(羽織)を着用しました。 …ということになっていますが…ちなみにこの隊服の羽織、実はあまり隊士たちに評判が芳しくなかったため、早々に廃止された(というより、隊士が嫌がって着なくなった)という説もあります。まあ、このあたりの真相は藪の中ですが…。

→初出 第2巻p129

御沙汰
御沙汰
(おさた)

要するに「通達」のこと。江戸時代、武士にとってはこの上意の命令には絶対服従が原則でした。「追って沙汰を待て!」などと命じられるシーンは、けっこう時代劇でもよく目にしますね。 進退どころか命の覚悟を決めねばならない深刻な「御沙汰」もありますが今回、近藤局長に下されたのは吉報だったようです。

→初出 第2巻p128

旗本・御家人
旗本・御家人
(はたもと・ごけにん)

慶応3年(1867年)夏、晴れて新選組隊士一同、幕府から旗本に取り立てられた…と近藤勇局長が麗々しく宣言したのを、元隊士・竹中平助(のちの居酒屋「角屋」の親父)が解説してくれていますが、ここで改めて整理しておきましょう。 幕府直参の家臣で、知行(支給される土地あるいは俸給)一万石以下の武家が「旗本」(一万石以上で「大名」)で「お目見え」つまり将軍に面会する資格を持っていました。そして「お目見え以下」の、おおよそ(竹中平助によれば)百石に満たない直参の武家が「御家人」ということになります。

→初出 第2巻p131

見廻組
見廻組
(みまわりぐみ)

局長である近藤勇が、新選組隊士は「旗本に取り立てられた」と伝えた折に、自分は見廻組与頭(くみがしら)格に、土方歳三は肝煎格になった…などと発表していますが、さてこれはどういう意味でしょう。 実は「見廻組」というのは新選組と同様、京都守護職・松平容保の配下で、こちらは幕府旗本や御家人の次男三男たちで構成された京都治安組織です。 与頭、肝煎、見廻組…などは、この見廻組の職階で、うしろに「格」とつけたのは、これと同格になった、つまりは正式に(浪士ではなく)幕府の旗本や御家人として遇されることになった、という意味です。 ちなみに見廻組は主に御所や二条城周辺の官庁街を管轄し、新選組は祇園や三条などの町人街・歓楽街を担当しましたが、やはり出自の違いなどで両者はあまり仲が良かったとはいえず、何かと反目したようです。

→初出 第2巻p134

御禄
御禄
(おろく)

「御禄」は要するに「武士の給料(俸給)」のこと。 ここでは改めて「幕府直参」の旗本や御家人身分になった新選組隊士(ことに主人公の吉村貫一郎)の俸給アップを見てみましょう。 南部での身分は「二駄二人扶持」つまり年「4俵」、直参の御家人に出世して年40俵(石高に換算すると、およそ20石弱)だと、単純計算でおよそ収入は10倍アップ! 南部での収入に扶持米まで加えて14俵と考えても、3倍にアップしたことになります。

→初出 第2巻p141

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