壬生用語辞典

第二章 第2話
(単行本第3巻)P050〜P077

草莽の政治家
草莽の政治家
(そうもうのせいじか)

本編では、桜庭弥之助が「南部の生んだ民間の大政治家」原敬(はらたかし)を称して使った例えですが、要は「民間人出身の政治家」という意味です。ちなみに「草莽(そうもう、もしくはそうぼう)」というのは本来、草が茫々と生えている様子、草むらを指す言葉です。
これが幕末期になると(広めたのは吉田松陰あたりの勤王志士らしいのですが)「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」つまり「草むらにいる名もなき民草から、尊王攘夷運動に参加する志のあるものが立ち上がる」という、いわゆる「草莽の志士」という言葉となって流行り始めたわけですね。
しかし考えてみると「民間人の政治家」というのも…現代なら政治家って民間人なのが当たり前じゃないの? と思うけど…妙な感覚ですが、このあたりは次項「原敬」で少々説明しましょう。

→初出 第3巻p051

原敬
原敬
(はらたかし)

直接、吉村貫一郎や壬生義士たちとは関係はありませんが、戊辰戦争以後に冷遇された盛岡(南部)の生んだ大政治家として桜庭弥之助が語っている人物です。「南部の鼻曲がり鮭」と揶揄されたのは、内務大臣に任命されても爵位を固辞し続けたのが「へそ曲がり」と思われたから…逆をいえば、明治大正期の国務大臣は貴族として爵位を受けるのは当然だったということ。
実際、彼は明治初頭に南部(盛岡)藩の藩校に通っていますが、のちに分家した際には戸籍上で士族ではなく士農工商の「商」と分類されていたようです。
桜庭が語っていた時期は大正3年(1914年)か翌年のことで、この時点で原はまだ内閣総理大臣に任命されていませんが、これより先の大正7年(1918年)には、立憲政友会による我が国初の本格的な政党内閣を率いる「平民宰相」として、庶民から絶大な人気を博すことになるわけです。逆をいえば大正時代半ばまで、宰相の地位は元武士(士族)たちの独占だったわけですね。当時「西にレーニン、東に原敬(はらけい)」などというキャッチフレーズまで…少々盛り過ぎですか?…誕生したそうですから。

→初出 第3巻p053

座学
座学
(ざがく)

要するに「座って教授(師範)から講義を受ける」ことです。
ちなみに江戸時代から明治期に至るまで、学問は師から教授されるものであって、たとえば対話や討論を経て学識を磨き深めていく…といった伝統はわが国ではほぼ存在しませんでした。
庶民の通う寺子屋は別として、会津の藩校であった明義堂はもちろん、おおよそ各藩の藩校であれば「文武両道」が原則でしたから午前中は座学、午後は武道場で剣術の稽古というのが通常の日課だったようですね。

→初出 第3巻p076

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