壬生用語辞典

第二章 第4話
(単行本第3巻)P110〜P128

上田組丁・足軽町
上田組丁・足軽町
(うえだくみちょう・あしがるちょう)

本項でも何度か登場したキーワードです。脱藩前、つまり南部藩時代に吉村貫一郎一家の住居があった盛岡城下の地名ですが、第二章(桜庭弥之助編)4話で街並みの様子が細かく描写されています。
詳しくは本編を読んでいただければいいのですが、注目したいのは盛岡城下で足軽同心たち…つまり下級武士が住んでいた「組丁(居住ブロック)」の立地です。大野次郎右衛門の家来が居住する上田組丁は奥州街道の北のはずれにありましたが、これに限らず、いずれの組丁も街道沿いで城下の端に位置していました。そしてこの上田組丁のなかでも足軽の居住区画はさらにその北端、田畑の中にあったことが描かれています。
要するに、一朝事あって他国が攻め込んできた場合…この場合北は津軽、南は伊達(仙台)ですが…足軽同心たちは真っ先に領主領民の楯となって守る役を担わされていたわけですね。

→初出 第3巻p113

御譜代
御譜代
(ごふだい)

「譜代」というと、江戸時代の領主「譜代大名」が真っ先に浮かんできますが、別に大名とは関わりなく、封建時代には何代にもわたって仕える主従は「御譜代の臣下」の関係とされました。
ちなみにこの語(「譜第」とも記されました)は日本書紀にも記述があるそうですから、源流はなんと飛鳥奈良時代にまで遡るようです。
時が下ってこれが江戸時代に入ると、将軍家の徳川は(一応建前では「源氏の長者」=清和源氏の末裔という扱いになってるけど)もともと譜代の臣下が少なかったこともあって「関ケ原の戦い以前に臣下に下った大名は、譜代の扱いとする」というムチャな解釈になったのは有名な話ですね。

→初出 第3巻p119

上田枡形
上田枡形
(うえだますがた)

南部で吉村貫一郎一家が暮らしていた「上田組丁」の北端、奥州街道へ通じる関所に置かれていた番所がこう呼ばれていました。桝の形をした番所が名前の由来とも思われますが、名称よりも市中から街道へ出る境界には必ず関所が置かれ、人の出入りは厳しく制限されていた、という江戸時代の常識にも注目すべきでしょう。
地方の藩だけでなくたとえば江戸市中でも、それぞれの町境には各々に木戸と番屋が置かれ、夜は出入りが厳しく制限されていましたし(このあたりの事情は、時代劇などでは省略されてしまい描かれることが少ないのです)。
ちなみに北に面した上田枡形の関所は「比較的、警備が緩やかだった」のに対して、南の伊達領に通じる「穀丁の関所」は極めて警備が厳重だった…とも描かれています。これは南部藩と伊達藩(仙台藩)との関係がいささか緊迫していたこととも関係ありそうですね。
以前『壬生義士伝異聞』でも触れましたが、ことあるごとに南部藩は南の伊達家をライバル視していました。伊達に対抗して官位の叙任工作を仕掛けたり、石高(伊達六十二万石)に張り合ってわざわざ自藩を高直り…つまり実質十万石なのに、二十万石へ嵩上げさせて、財政を圧迫させたり…していましたから。

→初出 第3巻p123

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