壬生用語辞典

第二章 第5話
(単行本第3巻)P129〜P153

撃剣教授方
撃剣教授方
(げきけんきょうじゅかた)

吉村貫一郎が南部(盛岡藩)を脱藩したした折に、関所の役人に語った用向きというのが「幕府講武所の撃剣教授方に推挙されたので、江戸へ出府する」という(偽の)藩命でした。「撃剣」は刀剣を含む竹刀や木刀を用いた剣術の総称と考えてください(この当時「剣道」という呼称はありませんでした)。
実は本コラム(第1章11話)でも一度、近藤勇がこの講武所教授方に推挙された件で(結局はボシャりました)簡単に触れたのですが、「幕府講武所」とは要するに幕府公式の武術訓練機関で…実はこれが設立されたのは安政2年(1855年)、つまりペリー日本来航の2年後のことなのです。
要するに幕府開闢以来二百年余り、なんと幕末に至るまで、幕府公認の武術訓練機関なんか「太平の世の中」には必要なかった…民間の道場(たとえばお玉が池の北辰一刀流・玄武館など)は別として…ということだったのでしょうね。

さて風雲急を告げる幕末に急遽、旗本御家人を再訓練する機関として「講武所」が設立されて弓術・砲術・槍術・剣術・柔術など各部門が教授されたようですが、中でもっとも重視されたのは剣術などよりも、近代兵器を扱う砲術だったようですね。ちなみに慶応2年(1866)年には結局、講武所は幕府陸軍に吸収され「砲術訓練所」へと改組された、とのことです。

→初出 第3巻p130

警視庁の巡査
警視庁の巡査
(けいしちょうのじゅんさ)

御一新(明治維新)ののち、東京へ出た桜庭弥之助の従兄が就いたのが「警視庁の巡査」と本編にあります。現代だと巡査といえば、単に警察官の下っ端…と考えがちですが、この時代での立ち位置は少々違うので解説しておきましょう。
明治初期の不平士族が巷にあふれた時期、新政府が治安維持のため帝都に明治7年(1874年)、新設したのが「警視庁」でした。
当初は東京府だけが担当エリアで、地方は各県知事の所轄だったのですが、全国で士族反乱が相次ぐと知事権限だけではとても追いつかず、その3年後には「東京警視本署」と改名されて、全国を一元管理して治安維持に当たることになります。
この任に直接当たった実働隊員が「巡邏査察」(じゅんらささつ)を略して「巡査」。明治初期には一等から4等まであって、一等巡査は現在の警部補に該当しました。

創設時、警視庁に巡査は3千人程度いたそうですが、なにせ不平士族たちを取り締まる任に就くわけなので刀剣の扱いに長けていなければならず、採用されたほとんどは士族出身でした。実際、明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、巡査の中から精鋭部隊(抜刀隊)が組織され、文字通り「斬り込み部隊」として壮絶な白兵戦を繰り広げることになります。
この当時の「巡査」は、現在の「お巡りさん」とは全く違う、「軍人」としての側面が色濃かったと考えるべきでしょうね。

→初出 第3巻p132

南部紬
南部紬
(なんぶつむぎ)

一般に「紬(つむぎ)」とは蚕の繭から糸を取り出し、より(ひねり)をかけて丈夫な糸に仕上げて(文字通り「つむいで」)織った絹織物のことを指します。現在、産地として有名なのは大島紬や結城紬、米沢紬などですね。
南部紬は江戸時代には盛岡藩の産業振興策により領内各地で生産され、ムラサキ・アカネなどの野草を原料として縞に先染めした素朴な織物でしたが、染原料の野草が消滅するにつれて一時期衰退しました。
現在は岩手県の郷土産業として再興すべく、紬糸使いの本格的な手機による南部紬の制作に取り組み、クルミ、ハシバミの木、紫根など各種の植物を染料にした紬織りとしてその技法が継承され、優雅にして軽やかで温かい肌ざわりと強靭で着崩れない格調の高い製品と評価を受けているそうです。

→初出 第3巻p141

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