文久年間に南部(盛岡)藩が命じられた内裏守備役とは「京都御所の警護役」のこと。また慶応年間に命じられた京都勤番は「京都市中の警護」と考えてください。一般に「勤番」は、武士が交代で出仕する(この場合は警備する)ことを意味します。
実際、この文久から(元治を挟んで)慶応年間まで、つまり西暦1864年から1868年にかけての京都は尊攘派公家や長州藩排除と立て続けの政変から大政奉還、さらに戊辰戦争勃発へと激動の嵐に見舞われ、駆り出されていた南部の藩士たちは息つく暇もなかったことでしょう。
→初出 第4巻p008
幕末の戊辰戦争で官軍指揮官の被り物として知られていますが、実は戦国時代からこのヤクの毛で作られた「威毛(おどしげ)」は兜の飾りなどとして使われていたようです。
官軍の中でも薩摩軍の指揮官は黒毛(黒シャ熊〜くろしゃぐま〜と呼ばれていました)また長州軍は白毛(白シャ熊)土佐軍は赤毛(赤シャ熊)と色分けされていました(これについては『壬生義士伝』本編でも第9巻p169で、語り部の斎藤一が解説しています)。
明治元年に盛岡の桜庭家の屋敷に乗り込んできたのは土佐の兵たちですから、指揮官の獅子頭は赤シャ熊の被り物だったはずですね。
→初出 第4巻p014
「宿へ帰っている」という意味ではなく、奉公人が(解雇されたりして)故郷へと戻った状態を意味します。本編でのこの場合は、南部を脱藩した吉村貫一郎の家族(妻のしづや、息子の嘉一郎たち)が盛岡から、しづの郷里である雫石へ退去していることを指しています。
→初出 第4巻p021
基本的に「代々、同じ主家に仕えてきた」武士の家系を指して「譜代の家」と称します。
歴史用語では(徳川幕府の)「譜代大名」という言葉が有名で、幕府開闢以前…つまり慶長5年(西暦1600年)の「関ケ原の戦い」より以前に徳川家に臣従した大名を「譜代」に分類していますが、これなどは相当「ゲタを履かせた」解釈で、本来の意味だとそんな「駆け込み臣下」はとうてい「譜代の家」には値しませんね。
→初出 第4巻p023
1868年(慶応4年=明治元年)、薩長政府によって「朝敵」と断罪されてしまった会津藩の赦免を求め、東北諸藩が結成したのが「奥羽列藩同盟」です。その後、庄内藩や長岡藩なども加わり「奥羽越列藩同盟」として再結成されたため、現在はこの名で呼ばれることが多いようです。
この「桜庭弥之助編」では、語り部の桜庭弥之助の父が大館の戦で官軍に付いた秋田(久保田)藩に南部が攻め入った武勲が語られますが、結局同年9月に南部(盛岡)藩は官軍に降伏することとなります。
→初出 第4巻p024