壬生用語辞典

第二章 第7話
(単行本第4巻)P030〜P055

勘定方
勘定方
(かんじょうがた)

幕府や諸藩で財務に携わる事務職の役人全般が「勘定方(あるいは勘定)」と呼ばれていました。現代でいえば「会計係」といったところですが、たとえば幕府だと勘定奉行をトップに勘定組頭や支配勘定、勘定吟味役…といった数百人単位の「勘定所」の勘定方が財務を預かっていました。
南部(盛岡)藩でも役名と内容はほぼ同じだったようですが、注意したい点はこの勘定方は当然、幕府や藩財政を預かる以上、算術(経理事務)に秀でている必要があり、単なる世襲では決して務まる役職ではなかったことでした。
本編でも(吉村貫一郎の竹馬の友であった)大野次郎右衛門が組頭の侍大将と勘定方を兼任し、さらに南部藩財政をつかさどる大坂蔵屋敷の「勘定差配役」まで任されていたのも、大阪商人を相手に市場取引を操作する才能を買われてのことだったのです。

→初出 第4巻p035

蝦夷地の沿岸警備
蝦夷地の沿岸警備
(えぞちのえんがんけいび)

18世紀末から当時の蝦夷地(北海道)にはロシア船の出没が相次ぎ、これに危機感を抱いた幕府は蝦夷を松前藩領から幕府直轄に変更し、各藩に警備を命じました。ここで南部藩も箱館に拠点(南部陣屋)を構えて出兵したのです。
いったん1820年代(文政年間)に蝦夷は松前藩に戻されるのですが、再び幕末に入りアメリカやロシア船が出没し、さらに安政2年(1854年)に箱館が開港されると南部藩は再び、箱館から渡島半島(箱館から室蘭、登別まで)の拠点各所に陣屋を築いて警備に当たることとなります。
この時期、幕府からは京都勤番なども命じられて、ただでさえ財政がひっ迫していた南部藩の負担はさらに増え、勘定差配役を任された大野次郎右衛門の首が回らなかったことは想像に難くありません。

→初出 第4巻p036

切腹と斬首
切腹と斬首
(せっぷくとざんしゅ)

改めて注釈を入れるまでもない(かもしれない)けれど、武家にとって「切腹を命じられる」のと「斬首に処せられる」のとでは、同じ命を取られるのでも天と地ほどの差があります。
そもそも斬首刑は庶民(町人百姓商人)が処せられるもので、要は罪人として処罰される屈辱的なもの。武家は切腹で自らが責任を取り自刃するものです。
ところが幕末の動乱期には往々にして、反乱軍の首魁として扱われた武士が「切腹を許されず」斬首あるいは(最悪の扱いとして)獄門にかけられる(要するに晒し首にされる)ケースがかなり多く登場します。『壬生義士伝』でも新選組局長・近藤勇も最期は板橋で斬首・晒し首にされましたし、吉村貫一郎の竹馬の友・大野次郎右衛門も南部敗戦の責を負って斬首されました。極端な例を挙げると、幕末天狗党の乱では百名近くの武士たちが(投降の後)まとめて斬首…と凄惨な最期を遂げています。

→初出 第4巻p042

会津戦争
会津戦争
(あいづせんそう)

慶応4年(明治元年・1868年)の王政復古により、薩長の新政府軍と旧幕府(佐幕)軍との間で勃発した「戊辰戦争」は、同時に東日本を中心に旧幕府側の諸勢力と新政府軍によるいくつもの戦いを誘発しせました。
維新前には幕府側に立って、孝明天皇の「股肱の臣」と頼りにされていた松平容保を藩主とする会津藩は「逆臣」にされてしまい、そして会津を支援した東北諸藩(奥羽越列藩同盟)と新政府軍との間で勃発したのが「会津戦争」です。さらに官軍と長岡藩との間では「北越戦争」が、そして東北諸藩の中で官軍に付いた秋田藩と列藩同盟との間では「秋田戦争」が…と、戦線は次々と拡大します。
鳥羽伏見の戦の時点では中立を保った南部藩でしたが、その後藩論は紛糾します。本編ではここで大坂蔵屋敷から盛岡へ呼び戻された勘定差配役の大野次郎右衛門が(慎重論を打ち出すと思いきや)論議の席上で一転。列藩同盟から離反した秋田藩を討つべし、という激烈な主戦論を打ち上げて…といった経緯が語られることになります。

→初出 第4巻p043

楢山佐渡
楢山佐渡
(ならやまさど)

幕末、南部藩(盛岡藩)の筆頭家老で、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩を討つ「秋田戦争」を指揮した人物として知られています。
本編では奥羽越列藩同盟に対しては慎重派で、列藩同盟を裏切った秋田を討つべし! と藩論を誘導したのは主に大野次郎右衛門だった、ということになっていますが、これには異論もあって…実際、楢山佐渡はことに(京都勤番で都に詰めていた時分に)薩摩には信頼を置かず、維新の折にも反新政府の立場を取っていた、とも言われています。
いずれにせよ、秋田戦争で官軍側に敗戦した責任が彼にあったのは間違いないのですが…。

→初出 第4巻p050

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