壬生用語辞典

第二章 第8話
(単行本第4巻)P056〜P078

転封
転封
(てんぽう)

本来の意味は「封建(ほうけん)領主が、時の支配者(公儀)の命により封土(ほうど=知行地)を替えさせられること」です(なので「てんぷう」ではなく「てんぽう」と呼びます)。ちなみに領地ごと取り上げられる措置の方は「改易」といいます。
懲罰的処置だけでなく、領地加増という褒賞の場合もありますが(有名なのは江戸幕府開府初期に行われた関ケ原以降の大名知行地大移動…俗にいう「大名鉢植え政策」など)、明治初期に断行された南部(盛岡)藩への明治新政府による転封は、明らかな奥羽越列藩同盟諸藩への報復の一環でした。
本編で桜庭弥之助はこの転封を「盛岡藩二十五万石から、白石藩(現在の宮城県白石市)十三万石」つまり半分もの減禄と表現していますが、実際には70万両という巨額の賠償と引き換えに、最終的に南部への帰領を許されたようです。いずれにせよ(一時的とはいえ)南部の領民に大混乱と苦境を強いたことに違いありませんが…。
ちなみにこの明治新政府による懲罰的な転封は、南部だけでなく奥羽越列藩同盟諸藩、さらに解体された旧幕府領・直轄地にも幅広く施行されました(たとえば駿府=静岡藩への転封)。もっともその措置、結局は廃藩置県が断行された明治4年(1871年)までの、わずかな期間に終わるのですが…。

→初出 第4巻p058

やませ
やませ
(やませ)

東北地方、太平洋岸の下北半島から青森、岩手(南部)にかけて夏の時期、たびたび襲来する寒冷な気候を地元の人々は古来から「やませ(山背、とも表記)」と呼びました。原因となるのは6月から8月にかけて東から吹く、湿気を含んだ冷たい風で、これが奥羽山地にぶつかって霧のように低く垂れこめ、この地方に定期的な凶作と飢饉をもたらしたのです。
詳しくは本編中で桜庭弥之助が解説していますが、江戸時代には「南部四大飢饉」といって、この地には元禄(1695年頃)・宝暦(1755年頃)・天明(1780年代)・天保(1830年代)と、4回にわたる大飢饉が襲ってその都度、大変な被害をもたらしたといわれています。

→初出 第4巻p062

天明の大飢饉
天明の大飢饉
(てんめいのだいききん)

本編中で桜庭弥之助が解説しているように、天明2〜7年(1782〜1787年)、主に東北地方を襲った大飢饉です。この時には天明2年7月に起きた浅間山(長野県北佐久郡)の大噴火による気象異常に、東北特有の「やませ」まで重なって、東北全体が長期にわたって凶作と飢饉に見舞われたといいます。

→初出 第4巻p063

天保の大飢饉
天保の大飢饉
(てんぽうのだいききん)

南部(盛岡)では江戸期の四大飢饉に数えられるうち、最後に襲ってきた大飢饉です。このときは天保4年から10年(1833〜1839年)まで延べ7年間にわたって凶作が続き、末期の天保9年に至っては、南部の石高にして二十三万八千石が損耗した…というのですから(ちなみに南部の石高は二十万石)、領内の収穫がほぼ全損したに等しい大災害だったことになりますね。

→初出 第4巻p064

四書五経
四書五経
(ししょごきょう)

儒教におけるもっとも重要とされる経典を総称したものです。君主が国家を統治するうえで最も大切な徳目を「大説」として述べたものと考えればよいでしょう(ちなみに儒教は「怪力乱神を語らず」なので宗教的内容、神話迷信の類は経典から排除されています)。余談ですが古代中国ではこの志を語る「大説」に対して、「小説」は個人の思想(空想)や虚構の類を語る下賤な書物として、一段落ちる扱いを受けていました。
具体的には(細かい内容は省きますが)四書とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』を指し、五経のほうがより格式の高いものとされています。

儒教と共に四書五経が日本に流入したのは飛鳥時代より前、仏教伝来より早い時期らしいのですが、これが一般教養として幅広く学ばれるようになったのは江戸幕府が儒教(朱子学)を公式学問として採用して以降のことですね。これには幕府が戦国の下剋上といった風習から封建秩序による国内統治を目指すという目的があったことは言うまでもありません。南部(盛岡)藩の藩校(明義堂)でも当然ながら、藩士子弟たちに講義を行っていたことでしょう。

→初出 第4巻p074

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