壬生用語辞典

第二章 第9話
(単行本第4巻)P079〜P097

雫石街道
雫石街道
(しずくいしかいどう)

吉村貫一郎が南部を出奔した後、残された妻みつや息子の嘉一郎たちが宿下がり(郷里に帰ること)したのが雫石の実家で、盛岡の西…場所的には現在の岩手県中部の岩手郡雫石町に属しています。ここと盛岡を繋ぐ街道が雫石街道で、さらに先の国見峠を西に越えると久保田藩領に繋がります(呼称も「秋田街道」と変わります)。
雫石と盛岡はおよそ10キロ程度の距離なので、桜庭弥之助が語った慶応元年(1865年)の飢饉の折には、南北に流れる北上川を渡って雫石の難民たちが助けを求め多数、盛岡へなだれ込んだようです。
ちなみに南部が久保田藩へ進軍した戊辰戦争(秋田戦争)の折も、南部勢はこの街道を進み、途中で吉村嘉一郎は駆けつけて参陣を願い出たのでしょう。

→初出 第4巻p080

出店
出店
(でだな)

盛岡の城下を、人目を忍んで歩いていた吉村嘉一郎を追いかけていた大野千秋と桜庭弥之助が辿り着いたのが、商家「鍵屋」でした。桜庭弥之助の解説では京にも出店(=支店のこと、「でみせ」ではなく「でだな」と読みます)を持つ、盛岡城下一の商家、とのことですが、実は第一章「居酒屋『角屋』の親父編」(第2巻p112-113)では、父である吉村貫一郎が京都三条室町にある「鍵屋」の出店を使って故郷に残した妻のみつや嘉一郎たちに宛て送金する様子が描かれています。
金融機関も郵便局もなかった江戸時代に、京から地方(この場合は南部盛岡)まで送金する手段の一つが、こうした商家の本店と出店を経由する方法でした。ちなみにもう一つの手段は運送業者(飛脚)に委託して現金(小判など)を直接送る方法ですが、いくら街道整備の進んだ江戸末期とはいえ、送金事故の可能性も考えられたから、それに比べ本店と支店間を繋いで「為替手形」で送金する、このシステムの方がはるかに安全だったのですね。
ちなみに「鍵屋」は架空の商家ではなく、実在していました。経営者小野一族は江戸、大坂、京都と幅広い支店網を持つ現在でいう総合商社で、盛岡では木綿商・古手商・酒造業も手広く営んでいたようです。

→初出 第4巻p089

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