壬生用語辞典

第二章 第10話
(単行本第4巻)P098〜P120

秋田打ち入り
秋田打ち入り
(あきたうちいり)

慶応4年-明治元年(1868年)に南部(盛岡)藩が秋田藩(久保田藩)に打ち入った、戊辰戦争終盤の局地戦で、別名「秋田戦争」とも呼ばれました。
戦争の引き金はその年の7月、秋田・久保田藩が新政府「奥羽鎮撫隊」の命令に服して奥羽越列藩同盟を脱退し、同盟の盟主であった仙台藩の使節を殺害したことで勃発します。
ただ基本的に久保田藩と戦ったのは庄内藩と南部(盛岡)藩で、仙台藩はこの戦争には参加していません。南部藩は一時期、久保田藩の藩境を突破・進撃するほど優勢でしたが、新政府側からの援軍投入や武器弾薬の供給で情勢は逆転。結局、盛岡藩は開戦の翌々月9月22日には久保田藩側に降伏しました
本編中ではこの戦争で吉村貫一郎の息子・嘉一郎が単身で南部勢に参陣し大手柄を立てたと言われています。

→初出 第4巻p099

太政官布告
太政官布告
(だじょうかんふこく)

明治新政府の「命令」のことを「太政官布告」と呼ぶ、と考えれば分かりやすいでしょう。ちなみに新政府の中に「太政官」という官職についた最高権力者…たとえば大久保ナニガシとかいう人物がいた、というわけではありません。
もとを質せば「太政官」というのは律令制度が整った奈良時代より始まる朝廷の最高行政機関の名称だったのですが、鎌倉時代以降、武家の世の中に切り替わって有名無実化していたものを明治新政府が「王政復古」の名目により復活させたわけです。
本編で「布告」されたのは、明治元年(1868年、始まったのは改元前の慶応4年正月ですが)に勃発した戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟に対し「薩長官軍に恭順せよ、反旗を翻すな」と命令する内容でした。
ただ結局、この「布告」に対して南部(盛岡)藩は「下向してきた奥羽鎮撫大総督には恭順の意を表し、一万両もの軍資金まで献金」したものの結局、布告に従うことはなかったのですね。

→初出 第4巻p101

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