壬生用語辞典

第二章 第11話
(単行本第4巻)P121〜P160

白石転封
白石転封
(しろいしてんぽう)

「転封」は「領地替え」の意味です。ここでは南部(盛岡)藩が慶応4年(明治元年・1868年)に戊辰戦争で秋田藩へ攻め入った咎により、明治新政府によって盛岡藩25万石から白石藩(現在の宮城県白石市)13万石に移封されたことを指します。
ただ実際には、領民や藩士たちによる熱心な旧領復帰運動によって70万両という膨大な献金(実質的に賠償金)負担と引き換えに南部(盛岡)藩への復帰は許されるのですが、結局は破綻寸前の藩財政という事情から、明治3年(1870年)に盛岡藩は他藩に先駆けて廃藩置県を申し出て、翌年には現在の岩手県の基となる盛岡・八戸・一関などの県が成立しました。
ちなみに、これら分立した各県が最終的に現在の「岩手県」の県域に統合されるのは明治9年(1876年)のことになります。

→初出 第4巻p125

廃藩置県
廃藩置県
(はいはんちけん)

明治4年(1871年)7月14日、明治新政府がそれまでの幕藩体制による300弱の藩を廃止し、地方統治を府と県に一元化した行政改革。歴史の教科書的にいうと、これが「廃藩置県」と呼ばれるものです。
流れとしては、慶応3年(1867年)に徳川幕府が「大政奉還」で政権朝廷に返上し→翌年、戊辰戦争を経て明治新政府が誕生し→明治2年(1869年)に新政府は大名領地と人民を朝廷に返還し(版籍奉還)→改めて翌々年、廃した藩を「県」に置き換え→旧大名を「知藩事」に任命し直す、という手順を踏みました。
ただ南部(盛岡)藩の場合、事情は少々異なり(前述の「白石転封」の項にも書きましたが)すでに70万両という献納(賠償)命令で藩財政はすでに破綻しており、藩から新政府への嘆願でその前年(明治3年・1870年)7月10日をもって盛岡藩は廃止、盛岡県が設置されることになります。
ちなみに、この廃藩置県の複雑な内情(カラクリ?)は、別コラム「壬生義士伝異聞 第23回騙されて? 廃藩置県一挙成立」にも詳しいので、興味のある方はご一読ください。

→初出 第4巻p128

差遣
差遣
(さけん)

聞きなれない用語ですが、要は「公式の使者を派遣すること」です。本書では明治4年(1871年)の廃藩置県により、明治政府から各県の県令をはじめ行政府の上層部は旧藩の出身者ではなく「差遣された」中央政府の人材を充てる方針を取ったのです(この方針は、明治19年(1885年)に文官任用制度が確立されるまで続きました)。
ちなみに、その2年前に施行された「版籍奉還」で当初、任命された知藩事(旧藩主)はというと、この廃藩置県によって「華族」に任ぜられて旧藩に残された債務からも、旧藩士たちへの家禄支給の義務からも解放され…と書くと聞こえはいいのですが、要は家臣との主従関係は解消。旧藩主も家臣ともども、失職することになるわけです。

→初出 第4巻p129

遊俠の徒
遊俠の徒
(ゆうきょうのと)

字面から考えれば「遊び人」。有名な「遠山の金さん」を想像すれば遠からず。ただこれを単純に「博打打ち=博徒、ヤクザ」を現代に当てはめて「暴力団の構成員」さらに「反社会勢力の一員」…と連想するのはいささか誤りです。
本編第六章(第11巻)「中間・佐助編」の語り部でもある親分・佐助の立ち位置(口入れ屋)を考えてもお分かりの通り。江戸時代から続く博徒や的屋など「任俠の徒」たちが地域社会に果たしていた役割は「町火消いろは四十七組」などを見ても、決して小さくありませんでした。

→初出 第4巻p154

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