壬生用語辞典

第三章 第1話
(単行本第5巻)P001〜P045

幕府の御直参
幕府の御直参
(ばくふのごじきさん)

吉村貫一郎が新選組の身分を称して、呟いた言葉です。
要は幕府の直属家臣(幕臣)で1万石未満の武士の総称ですね(1万石以上だと「大名」となります)。また直参の「旗本」は石高1万石未満で、将軍へのお目見え(謁見)が許された身分の武士を指し、それ以下の家臣は「御家人」と呼ばれました。
ただ、考えてみると新選組の隊士はそもそも「浪士隊」上がり、つまり出自は浪人身分であり、京に上った折に京都守護職・会津藩お預かりの 「壬生浪士組」となりました(つまり、この時点では会津家中の「陪臣」扱い)。彼らが最終的に幕臣に取り立てられたのは戊辰戦争の直前の慶応3年(1867年)ですから、言ってしまえば「成り上がりのにわか直参」なのです。そう考えると、この吉村の「逃げる者などいるはずねえべ!」という呟きにも、何やら皮肉めいた響きすら感じられてしまいますね。

→初出 第5巻p010

御高知
御高知
(おたかち)

盛岡(南部)藩では、千石取り以上の武士は「御高知衆(おたかちしゅう)」あるいは「高知衆(たかちしゅう)」、それ以下は「平士(へいし)」と呼ばれていました(実際の区分はさらに細かいのですが、ここでは省略)。さらに平士中でも百石取り以上は「本番組」で、この「組」には結構な数の足軽(あるいは中間・小者(ちゅうげんこもの)といった士分を持たない者も含め)配下を抱えていました。
ちなみに二駄二人扶持(にだににんぶち)の微禄とはいえ吉村貫一郎は足軽…つまり士分(武士としての身分)ではあったからこそ、少なくとも藩校で身分の高い子弟たちとも机を並べて学ぶことも、さらには文武の才を認められて藩校の師範に任じられることも可能であったと言えますね。

→初出 第5巻p015

壬生浪
壬生浪
(みぶろ)

呼び方としては「みぶろ」だったのか「みぶろう」が正しいのか…どうでもいいことではありますが…そもそもこの言葉、正式名称でも何でもなく、新選組隊士への蔑称だったのだから、おそらく言い捨て感が強い「みぶろ」で正しいのでしょう。
元をたどれば、幕末の文久三年(1963年)江戸から将軍・徳川家茂(いえもち)上京の警護役として上ってきた寄せ集め浪人たちの一部(京都残留組)が洛南の壬生村(現在の京都市中京区)の八木家に寄宿したのが新選組の始まりで、まだ会津公お預かりになる以前の事だし身なりは貧相でボロボロ、なので京童たちは「みぼろ(身ボロ?)」とも呼んだのが発端、という説があるくらいです。
戊辰戦争で敗走し、旧主家に転がり込んできた吉村貫一郎と相対した大野次郎右衛門も、(内心はともかく)表向きはかなりの嫌悪感と侮蔑を込めて吐き捨てた…と解するべきでしょう。

→初出 第5巻p021

旗本は八万騎
旗本は八万騎
(はたもとははちまんき)

「幕府の御直参」の項でも取り上げましたが、幕府直参の旗本はおよそ5千人程度、これに旗本が召し抱えていた陪臣や御家人の数およそ7万弱を合わせたのが、いわゆる「旗本八万騎」と呼ばれるものでした。
ただこの武士団が「徳川三百年」という泰平の世で官僚化し、結局は幕末動乱の肝心な時期に兵士として(戦闘要員として)役に立たなくなっていた、というのは本編中でも吉村貫一郎が呟いた本音です。
実際問題として「旗本八万騎」ことごとくが幕末には役立たずになり果てていた…というわけではなく、本編第七章にも登場した中島三郎助のように箱館戦争の最後まで幕府に殉じた幕臣、老中はじめ彰義隊の隊員のように徹底抗戦した直参も多々いたのです。また洛中で新選組と同様に活躍した京都見廻組も、直参の幕臣たちで組織されていました。
もっとも、彼らを束ねるべき将軍・徳川慶喜(よしのぶ)自身が戊辰戦争初期に早々と官軍に対して恭順謹慎したため、結局は直参武士たちも結束して薩長と戦う力を失ってしまった、というのが本当のところだったようですね。

→初出 第5巻p025

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