壬生用語辞典

第三章 第3話
(単行本第5巻)P071〜P094

諸士調役兼監察
諸士調役兼監察
(しょししらべやくけんかんさつ)

稗田利八(隊士当時は池田七三郎)が語った慶応3年時点での、吉村貫一郎の(新選組における)役職です。当時の池田の目線からは新入隊士の「教育係」として描かれていますが、実体はそんな軽々しいものではありませんでした。
このあたりは吉村の同僚だった竹中正助が第一章で詳しく語っていますが(第1巻202ページ)、要するに新選組隊士たちを取り締まったり、不逞浪士たちの動向を探ったりする役職…憲兵と密偵の役を兼ね備えた重職で、順列から言っても局長(近藤勇)副長(土方歳三)参謀(伊東甲子太郎)以下、一番隊から十番隊の隊長に次ぐ幹部でもありました。
また本編では語られていませんが、この「監察」という役職上、吉村は第二次長州征伐の時期には、随行員として長州との交渉のため広島まで下向しているのです。要するに長州側の兵装やら陣立てをスパイしていたのでしょうね。新人隊士たちには「頼りがいのある兄貴」だった反面、同時に彼は「暗部」的な陰働きもこなしていたのでしょう。
実際この池田七三郎編でも、池田が(新選組と敵対関係になった)御陵衛士の宿舎を訪ねた帰路で、たまたま彼が吉村貫一郎と出くわし、説教される場面がありますが…もちろんこれは「偶然の出来事」などではありません。

→初出 第5巻p073

西本願寺
西本願寺
(にしほんがんじ)

戦国時代には織田信長に反旗を翻し、大坂では石山本願寺が徹底抗戦した(石山合戦)浄土真宗(一向宗)ですが、そののち豊臣秀吉による勅許を経て京都へ本願寺が移転。さらに徳川幕府成立後に宗門内部での争いが本格化し、1603年(慶長8年)には本願寺は東西に分裂します。
新選組が一躍有名となり、大所帯になったため1865年(慶応元年)に壬生の八木邸から屯所を移転したのは、京都七条堀川にあった真宗本願寺派のほうでした。真宗分裂で六条烏丸に建立した真宗大谷派の本願寺(東本願寺)と区別するため、こちらは西本願寺と呼ばれています。
一説には戦国末期・石山合戦以来(毛利家が石山本願寺に兵糧を提供した)縁のある長州との繋がりを断つため、佐幕派の新選組をここに駐屯させたともいわれています。ただ、さすがに傍若無人の振舞いが過ぎて閉口した西本願寺側が1万両もの寄進をして、新選組の新屯所を醒ヶ井に建てお引き取り願ったのが慶応3年のこと。さらにその翌年には大政奉還ののち薩長との戊辰戦争が勃発、新選組は京を追われることとなります。

→初出 第5巻p079

玄武館
玄武館
(げんぶかん)

「お玉ヶ池の玄武館」といえば千葉周作が剣術流派・一刀流の各派を統合した「北辰一刀流」の道場として幕末には三千人の門人を抱えたという江戸最大の流派の道場でした。
ちなみに「一刀流」そのものは江戸初期、幕府が剣術指南役として召し抱えたことで隆盛を誇っていましたが、やはり「お玉ヶ池先生」の異名を持つ千葉周作の功績は多大なものがあったのでしょう。となると、この北辰一刀流の大目録(免許)皆伝という吉村貫一郎の実力がどれほどのものかは想像に難くないのも当然ですね。
余談ながらお玉ヶ池界隈(現在の千代田区岩本町付近)には儒学者、漢学者などが多数住んでおり、江戸の学問の中心地でもあったそうです。

→初出 第5巻p087

樋

(ひ)

日本刀の部位としては聞きなれない用語ですが、要は刀の背に沿って掘られたミゾの事です(漢字で「樋」は〈とい〉とも読みますね、たとえば「雨樋〈あまどい〉」は雨水の流れるミゾです)。用途としては刀の重量を軽減する、刀身を曲がりにくくする、刃が当たったときの衝撃を緩和する、などがあります。
素振りをすれば、この樋に沿って空気が流れ鈍い音が鳴るのは頷けますが、これを打っていない刀を振って唸りを上げさせるには相当な速度で打ち下ろす必要があるだろう、というのは想像に難くありませんね。

→初出 第5巻p090

戻る TOP