壬生用語辞典

第三章 第4話
(単行本第5巻)P095〜P119

伊東道場
伊東道場
(いとうどうじょう)

伊東道場は江戸末期、深川佐賀町(現在の東京都江東区佐賀一丁目付近)に構えられていた北辰一刀流の道場です。
道場主の伊東甲子太郎は、元々は旗本家付・鈴木専右衛門の長男に生まれた文武両道の人でしたが、父が家老と対立し閉門蟄居。甲子太郎は脱藩し、やがて江戸へ出て北辰一刀流を学んだ折に道場主であった伊東精一郎に見込まれ、養子となって道場を継ぎました。最盛期には50名を超える門弟を抱えるほど繁盛したといわれています。
のち元治元年(1864年)に新選組幹部の藤堂平助の仲介で近藤勇と面談し意気投合。参謀格で勧誘されて、同志として門弟9名と共に新選組に合流しました。

→初出 第5巻p104

佐幕
佐幕
(さばく)

慶応3年(1867年)秋、新選組新隊士として上京する途上の池田七三郎に、引率していた古株の大幹部・井上源三郎が吐き捨てた台詞です。
「きょうは勤王あすは佐幕」、この時期の京に多数たむろしていた「正体のない浪士」たちの節操のない有様を軽蔑した言葉ですが、勤王つまり天皇に忠誠を尽くす姿勢はともかく、それに対抗する「佐幕」つまり「幕府を補佐する立ち位置」は何も「朝廷に弓を弾く」側に味方していたわけではありません。あえて言えばこの幕末の時期、すべての心ある者たちは(それこそ武士百姓や「草莽の志士たち」含めて)ことごとく「勤王」であったと言っても過言ではなく、要は国政の大難局にあって、幕府側とそれに対抗する勢力、どちらに加担するかで様子見をしていた、と考えるのが正しいでしょう。
ちなみにこの時期は朝廷から「逆賊」とされていた長州の征伐(第二次長州征討)が最終的に失敗し、藩主毛利敬親・定広父子が復権した直後ですから「佐幕」側はかなり追い詰められていました。

→初出 第5巻p110

御陵衛士
御陵衛士
(ごりょうえじ)

慶応3年(1867年)3月に、新選組参謀の伊東甲子太郎は局長・近藤勇と「話し合いの末」に、伊東は同志十数名とともに新選組を離脱します。この時点で伊東たちが名乗ったのが「御陵衛士」で、前年末に亡くなった孝明天皇の御陵(陵墓)をお守りする衛士、という立場でした。もちろん彼らは「孝明天皇の墓守」を買って出るのが目的ではなく「一和同心」、大政奉還後の新政府樹立と公儀による国民皆兵・大開国を志して政治活動を開始します。要は新選組隊士が幕臣として取り立てられる「佐幕」路線を選んだ近藤たちと伊東の路線の違いが、ここへ来て新選組の分裂という結果を招いたわけですね。
局長・近藤との話し合いで離脱…とは言うものの、分派活動を決して認めないのが新選組局中法度の定めでしたから、この「御陵衛士」離脱が平穏無事に終わるはずもなく、本編で池田七三郎が感じた妙な空気の通り、その11月に「油小路の惨劇」事件へと繋がることになります。

→初出 第5巻p112

局中法度
局中法度
(きょくちゅうはっと)

新選組「血の掟」として有名なのが副長・土方歳三が考案したといわれている「局中法度五ヶ条」。第1巻(居酒屋『角屋』の親父編)でも語り部の竹中正助が証言していますし、本サイト「壬生義士伝異聞第5回・バイトしたら切腹!」でも触れましたが、なにせ竹中いわく「斬死するやつより腹を切らされるやつのほうがずっと多い」新選組だったそうですから。
まず「士道に背いたら」切腹。勝手に新選組を脱けたら切腹。勝手に金策をしたら切腹。勝手に訴訟事を仕切っても切腹。勝手に私闘しても切腹! 
ともかく何があっても情状酌量の余地なく、処分はすべて切腹というのは尋常ではありません。第1巻では語り部の竹中自身も介錯役に任じられますが、この折の隊士の罪状は「町家の娘にちょっかいを出した」という(だけの!)ものでした。

→初出 第5巻p114

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