壬生用語辞典

第三章 第5話
(単行本第5巻)P120〜P143

赤報隊
赤報隊
(せきほうたい)

幕府による大政奉還、王政復古の後に慶応4年(1868年)1月、長州藩や薩摩藩など官軍(東山道鎮撫隊)の指揮下で先鋒を勤めた部隊です。3部隊で編成され、篠原泰之進ほか元「御陵衛士」たちは2番隊に編入されていました。つまり新選組とは袂を分かったのち、戊辰戦争で完全に敵味方に分かれたわけですね(直接、刀を交えてはいませんが)。
この赤報隊は、いささか数奇な運命をたどった部隊で、官軍の先鋒として江戸へ向けて進軍中に「年貢半減」などを宣伝しながら幕府への世直し一揆を仕掛け、領民の支持を得たものの、結果的にこれが実現せず、最終的には「ニセ官軍」の汚名を着せられ数多くの隊員が処刑されたという悲劇で終わります。
ちなみに、ここに登場する御陵衛士の篠原泰之進は、もともと横浜奉行所の役人ながら、英国人への暴行事件を起こして江戸へ逃げ、そのときの縁で知り合った伊東甲子太郎と共に新選組へ加わったという異色の経歴の持ち主です。また新選組隊士時代の篠原は、吉村貫一郎の同役(諸士調役兼監察方)を勤めておりました。

→初出 第5巻p126

間諜
間諜
(かんちょう)

「間者(かんじゃ)」とも呼びます。簡単にいえば敵の様子を探るために潜入した(あるいは敵と接触した)「スパイ」のことです。役目を考えればいわゆる「忍者」や幕府の「御庭番」といった存在にも近いけれど、本人が「諜報活動をもっぱら生業にしていたわけではない」点で少し異なります。さらに本章の語り部・池田七三郎に至っては、本人に自覚がないまま結果的に、その役割を果たしてしまっただけですから。
むしろ本来の意味で間諜の役を果たしていた…というのなら、本編では斎藤一の方がそれに該当するでしょうね。ただし斎藤の場合、高台寺党(御陵衛士)の中に新選組が放った間諜、という立ち位置になりますが。このあたりの詳細は本編「斎藤一編」第9巻をご覧ください。

→初出 第5巻p128

高台寺党
高台寺党
(こうだいじとう)

慶応3年(1867年)3月、新選組参謀・伊東甲子太郎が同志16名を連れて分派した「御陵衛士」の別名です。京都東山の高台寺塔頭(たっちゅう・禅宗の寺院で高僧遺徳を偲んで建てた塔や小院のこと)である月真院に屯所を構えたことで名づけられました。

→初出 第5巻p130

石段下
石段下
(いしだんした)

池田七三郎が高台寺党の毛内有之助と会った帰りに「偶然」吉村貫一郎から見咎められ、鴨川の河原で事情を聞かれた際に差し出された団子が「石段下」で買った土産、ということでした。
「石段下」とは御陵衛士たちの屯所である高台寺の近く、京都の観光名所でもある祇園の八坂神社の石段下を指します。八坂神社の朱塗りの西楼門の下の二十段ほどの広い石段を降りたところ、東大路通と四条通りがTの字型にぶつかったところが「石段下」で、前は祇園の商店街や花見小路、後ろは円山公園と年中賑わいを見せています。

→初出 第5巻p134

祇園
祇園
(ぎおん)

「石段下」の項でも簡単に触れましたが、京都市東区の観光名所である八坂神社や祇園、それに「御陵衛士」の屯所があった高台寺は、慶応3年(1867年)当時の新選組新屯所(醒ヶ井七条)からは真東の方角。これに対して、以前の屯所があった壬生村の八木邸は南西に位置します。とすると、吉村貫一郎が手土産に「祇園の石段下にあった団子屋で」土産を買ってから八木邸へ向かうには、いったん逆方向へ遠回りする必要があり、かなり不自然です。池田七三郎(稗田老人)が「見当が違いすぎ」と回想で語ったのはこのことです。

→初出 第5巻p135

つるかめつるかめ
つるかめつるかめ

鶴と亀を連呼する…稗田老人が呟いた、何やら謎めいた符丁です。よく江戸落語などでも使われる言葉なのですが、縁起がいいようで、実際の意味はその逆なのですね。似たような符丁に「くわばらくわばら」がありますが、要するに縁起が悪い、災難が降りかかりそうなときに、それを回避する「厄除けの呪文」のようなものと考えてください。
実は『壬生義士伝』本文中にも時折、セリフとして登場しています。たとえば第8巻(斎藤一編)179ページでは、近藤勇の養子になった谷三十郎の末弟を(嫉妬から?)新選組隊士たちが虐めていた折、それを見咎め激しく叱責した吉村貫一郎に対して沖田総司が、お説ごもっとも、今後は気を付けましょう…という意味を込めて「つるかめつるかめ!」と連呼していますね。

→初出 第5巻p143

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