壬生用語辞典

第三章 第6話
(単行本第5巻)P144〜P166

助勤
助勤
(じょきん)

言うまでもなく、ここで土方歳三が「助勤」と口にしたのは斎藤一のことで、正式には斎藤の新選組での肩書は「副長助勤」で「三番隊長」ですから近藤勇をトップ、副長・土方歳三をナンバーツー、一番隊長の沖田総司をナンバースリーと数えると、斎藤一はナンバーファイブの重鎮となります。したがって、新米隊士の池田七三郎ごときが軽々しく呼び捨てにできる人物ではありませんから、報告された土方に小突かれるのも当然。
要するに御陵衛士に加わったのはあくまで「公用旅行中」の仮の姿、つまり「新選組の間諜としての任務」が無事終了したので、本人は新選組に帰隊した…と、この時点で堂々と公表したことになります。
ここでは池田七三郎視点からの描写ですが、逆に第9巻(斎藤一編)では斎藤視点から、この新選組帰隊の真相が描かれます。斎藤帰隊の直後に勃発する「油小路の惨劇」、つまり伊東甲子太郎暗殺と御陵衛士壊滅の裏で蠢いていた陰謀の内容なども判明しますので、ぜひご覧ください。

→初出 第5巻p159

甲州での戦
甲州での戦
(こうしゅうでのいくさ)

この章の用語辞典第2話で解説した「勝沼の戦」のことです。語り部・稗田利八(当時は池田七三郎)が新選組に入隊したのが慶応3年(1867年)10月。実はこの月に徳川慶喜は大政奉還しており、さらにこれより3ヶ月後の正月早々には戊辰戦争が勃発します。
新選組(徳川軍)と官軍が激突した鳥羽伏見の戦(開戦は慶応4年1月4日)が池田七三郎の初陣ですから、なんと入隊後3ヶ月も経ずに彼は戦場に駆り出されているのですね。
さらに鳥羽伏見の敗戦後、この甲州での戦で旧新選組(甲陽鎮撫隊)が再び官軍と激突したのは同年3月6日。
つまり、池田七三郎は新選組に入隊してからわずか半年のうちに、2度の大戦を体験したことになります! ちなみに彼が初めて「人斬り」を体験したのは油小路の惨劇で、入隊してから1ヶ月後の慶応3年11月18日…ですからこの短期間で、彼は人生最大の修羅場を(しかも九死に一生を得て)潜り抜けてきたのですね。
確かに彼はいちおう「天野静一道場の目録」で、剣の腕に覚えはあったのでしょうが、戦での経験は皆無。してみると、吉村貫一郎から受けたほんの1〜2か月の教練がどれほど貴重なものだったか、改めて思い知らされます。

→初出 第5巻p164

二百三高地
二百三高地
(にひゃくさんこうち)

記者が語り部の稗田利八(池田七三郎)に取材したのは大正3年(1914年)で、この年は日露戦争終結から数えると、中国大陸での最大の陸戦であったロシア軍旅順要塞を陥落させ、日露戦争が終結(明治38年・1905年)してから9年後に当たります。
二百三高地とは、ロシアの要衝・旅順港を一望できる要塞を日本陸軍が西側背後から攻略するための拠点で、この作戦によりロシア旅順艦隊を無力化するのが目的でした。
乃木希典将軍の指揮のもと、映画でも有名になったこの旅順攻略戦はまた、日露戦争最大の激戦としても有名で、日本陸軍は15000名の兵力が5日間の激戦で3000まで減少したと言われています。
稗田利八が記者に語ったこの当時は、社会の風潮も(第一次大戦に我が国が参戦した直後でしたし)気宇壮大に、10年ほど前の日露戦争勝利を語る英雄話が(多分にフィクションを交えて)花を咲かせたことは容易に想像できますね。

→初出 第5巻p165

山王様のお守り
山王様のお守り
(さんのうさまのおまもり)

「山王様」とは現在、東京・赤坂にある日枝(ひえ)神社のことです。武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として武蔵江戸氏が山王宮を祀り、さらに太田道灌公が江戸城内に鎮護の神として川越山王社を勧請。以来江戸の総氏神としてお祀りされています。ちなみに「日枝神社」の社号を用いるようになったのは慶応4年(明治元年)からで、それ以前は「山王様」「日吉大権現」などと呼ばれ、江戸庶民から親しまれたそうです。
上京した池田七三郎が元奉公先・永見貞之丞の奥方から、先輩の毛内有之助に託されたのがこの山王様のお守りですが、実は仕事運や出世運ほか良縁成就などさまざまに大変なご利益があるとの評判は現在も高いとか。もっとも江戸期には、武運長久にも特段の利益があった…といった逸話は残念ながら確認できませんでした。

→初出 第5巻p166

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