壬生用語辞典

第三章 第12話
(単行本第6巻)P099〜P122

身代
身代
(しんだい)

これは歴史用語というより昔の日本の文化的常識と考えるべきでしょうが、平たく言えば「財産」のことです。あえて注釈をつけるなら稗田老人が「倅や婿たちにたいそうな身代を譲り」渡したと語っている部分ですね。譲り渡した相手に「嫁や娘」つまり直系であれ傍系であれ女子は含まれていない点が重要です。
つまり「身代」とは明治以前(正確に言うなら民主化する以前)封建時代の日本の常識。当時は個人の財産というより「家の財産」であって、一家の当主(なので男子の戸主に限る)に代々受け継がれるもの、という考え方がありました。考えてみれば稗田老人は「池田七三郎」を名乗り新選組隊士になった時点で「稗田の家」とはいったん縁を切り、勝沼の戦で九死に一生を得て家に戻った時点で再び身代を引き継いだことになります。
余談ながらこれに似た「身上(しんしょう)」という言葉もあります。福島民謡「会津磐梯山」の中にも「小原庄助さん、なんで身上つ〜ぶした♪」という相槌がありましたね…ご存じありませんか?

→初出 第6巻p101

近江屋
近江屋
(おうみや)

かの坂本龍馬と中岡慎太郎が慶応3年(1867年)12月10日、暗殺された事件現場として有名です。事件の概要は本編に詳しいので一々解説しませんが、実はこの事件は明治に入って当の下手人(と称する人物)が名乗り出てたにも拘わらず、相変わらず真犯人は現在に至るまで取りざたされている幕末史最大のミステリーでもあります。
ここで語られているのは(あくまで)稗田老人による推理ですが、諸藩諸勢力の陰謀が入り乱れる、もう一つの幕末裏面史の謎解きとしてお楽しみください。

→初出 第6巻p104

御家人
御家人
(ごけにん)

徳川幕府直参の武士たちのなかで、大名(1万石以上)、旗本(1万石未満)で、将軍に謁見を許された者)に次ぐ立場で将軍謁見が許されてはいないものを称して「御家人」と呼びますが、ここで稗田老人が語っているのはむしろ、こうした直参の分類枠を超えた幕府全体、俗にいう「旗本八万旗」を支えている武士たちの総意…と考えるべきでしょう。

→初出 第6巻p106

京都見廻組
京都見廻組
(きょうとみまわりぐみ)

いわば「新選組のライバル」とも目される、幕臣による京都治安維持組織です。設立は元治元年(1864年)で、会津藩主で京都守護職の松平容保の配下として組織されたので、いわば立ち位置は新選組と同じなのですが、こちらは与頭(隊長)が旗本、隊員は御家人たちで組織されており、また役職も与頭をトップに与頭勤方、肝煎、見廻組、見廻組並…等々、指揮系統も厳格。約200名ほどで組織されていました。
不逞の反幕府勢力を取り締まる警察活動をした点でも新選組と同様ですが、活動範囲は主に御所や二条城周辺など武家地が主体で、祇園などをはじめとする町衆の歓楽地を管轄した新選組とはテリトリーが重なることはありませんでした。また旗本御家人から組織された経緯もあり、元浪人を主体とした(だから「新選」なのですが)新選組と共同歩調をとって協力する関係ではなかったようです。

→初出 第6巻p107

千葉定吉道場
千葉定吉道場
(ちばさだきちどうじょう)

本編でも何度か取り上げた、北辰一刀流道場「玄武館」の流れを汲む名門の剣術道場で、道場主の千葉定吉は、玄武館の道場主・千葉周作の弟にあたります(こちらの道場は「桶町千葉道場」と呼ばれ、現在の東京都中央区八重洲・京橋付近にありました)。
ちなみに坂本龍馬は、この道場の塾頭を務めていたという逸話もあり、長刀の目録も授かっています。また定吉の長男は千葉重太郎、娘は千葉さな子といいますが、実は両名とも坂本龍馬とは浅からぬ因縁があります。(ドラマ等で描かれた逸話ですが)重太郎は当初、開国派の国賊と激高していた龍馬と行動を共にして勝海舟の邸宅に乗り込んでおりますし、娘のさな子は終生、龍馬の婚約者を名乗っていたといいます(真相は不明)。

→初出 第6巻p113

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