壬生用語辞典

第三章 第16話
(単行本第7巻)P003〜P026

二条城
二条城
(にじょうじょう)

京都名所として名高い、世界遺産としても知られる平城(ひらじろ:平地に建造された城)です。場所は京都市中京区二条通堀川で、正式には元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)と呼称されています。
落成は慶長8年(1603年)で、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康によって築城されました。本編で新選組が醒ヶ井の屯所を引き払い、入城したのはもちろんこの城ですが、余談ながら京都にはこの他にも、室町時代に足利義輝が築城したものと織田信長が足利義昭に寄贈したもの(両者とも現在は二条御所と呼ばれています)など、旧跡が複数存在しています。

→初出 第7巻p003

水戸藩
水戸藩
(みとはん)

改めて言うまでもなく徳川御三家の一つ。江戸期を通じて現在の茨城県中・北部を治めていた雄藩…という教科書的解説はさておき、その水戸藩がなぜ大政奉還直後の二条城詰めを任されていたのかといえば(稗田老人も語ったように)将軍・徳川慶喜を支えていた一会桑政権(一橋・桑名・会津)が大政奉還で瓦解し、二条城留守居役も慶喜の出身藩である水戸に頼らざるを得なくなった、という事情によります。
ところが水戸藩もまた、幕末のこの時点でかなりの混乱状態に陥っていました。…詳しく述べるとキリがないのですが、元々水戸藩には「勤王」を尊ぶ気風があり、尊王攘夷運動が吹き荒れた幕末には、攘夷論を掲げる過激派(天狗党)と徳川宗家に付く保守派(諸生党)の間で藩論が真っ二つに割かれます。藩の内紛は脱藩藩士を生み、安政7年(1860年)3月には大老井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という事件まで引き起こしました。

この戊辰戦争直前(慶応3年・1867年)時点でもこの水戸藩内紛は収拾せぬまま、大政奉還による命令系統の混乱が追い打ちをかけます。慶喜の命によって二条城留守居役を命じられた上に、この期に及んで「老中より二条城留守居役を命じられた」との触れ込みで、さらに一触即発の構えを見せる薩長の仇敵である新選組まで乗り込んでこられたら…水戸藩の家老たちが困惑に頭を抱えてしまうのも、情けない話ではあるけれど理解できなくもありませんね。
ちなみに、この水戸藩内紛(諸生党=保守派VS天狗党=改革派)は天狗党粛清から藩内戦(明治元年・1868年の弘道館戦争)へと展開し、そのまま保守派の水戸脱出、会津への合流・戊辰戦争参戦へと繋がっていきます。
この水戸藩内紛による有為な人材喪失の後遺症は大きく、こののち明治維新後にも残念ながら水戸藩出身者が主導権を発揮することは叶いませんでした。

→初出 第7巻p013

大樹公
大樹公
(たいじゅこう)

「寄らば大樹の陰」と呼ばれるお方…という寓意なのでしょうが、この時代においては、将軍・徳川慶喜公を指す名称です(この時点では「元」将軍と呼ぶべきでしょうか)。そもそもは中国・後漢の馮異(ふうい)という将軍が諸将の軍功を論ずる時、必ずひとり大樹の下に退いて、功を誇ることがなかったので「大樹将軍」とあだ名された…という故事に由来するそうです。
余談ながら「この」大樹公は(西洋列強の強引な要求により)幕末に兵庫を開港する勅許(ちょっきょ)を朝廷に申し出た際、言を左右して渋る公卿を相手に強訴し、無理やり話をまとめてしまったようで、この手腕をして「さすがは(頼りになる)大樹公」と薩摩藩の大久保利通や坂本龍馬が舌を巻いた(あるいは歯ぎしりして悔しがった)という逸話も残されています。

→初出 第7巻p019

会津や桑名
会津や桑名
(あいづやくわな)

回想で稗田老人は「新選組は会津や桑名の比じゃなく」薩長から恨みを買っていた…と語っています。会津藩が恨みを買ったのは、藩主松平容保が京都守護職に任じられていたし、元治元年(1864年)の蛤御門の変では長州藩を京から叩き出した実行犯(?)だから致し方ないとして、桑名藩はなぜ…? といえば、前項にも登場した、徳川慶喜を補佐した「一会桑政権(一橋・会津・桑名)」のせいですね。ちなみに桑名藩主の松平定敬(まつだいら さだあき)はこの当時、京都所司代の任にありましたが、実は会津藩主・松平容保の実弟でもあります。要するに兄弟揃って薩長の恨みを受けた格好ですね。
ちなみに蛤御門の変では、薩摩藩も会津と一緒になって長州を京から追い落とした筈ですが…こちらの方は、坂本龍馬らが両者を「薩長同盟」で結び付けるのに成功したため、恨みもチャラになったようです。
いずれにせよ(松平容保公から与えられた任とはいえ)新選組が京を舞台に長州藩士を斬りまくっていたのは確かだから、彼らの恨みを一身に背負うのは致し方ないとして、薩摩藩にまで恨みを買った(と言われる)のは如何なものでしょう? そもそも、鳥羽伏見の戦が勃発するまで、新選組と薩摩藩に遺恨などほとんどなかったのですから。
なので慶応4年(1868年)正月早々に新選組の屯所である伏見奉行所が薩摩から砲撃され開戦となったのは、新選組にすれば「鳩が豆鉄砲を喰らった」というか、いきなり後ろから不意打ちを喰らって斬り付けられた気分だったのではないでしょうか。

→初出 第7巻p023

天満屋の騒動
天満屋の騒動
(てんまやのそうどう)

慶応3年(1867年)12月、海援隊と陸援隊士総勢16名が京都油小路の旅籠・天満屋を襲撃して紀州藩士三浦休太郎を襲い、護衛についていた新選組隊士らと戦った事件として知られています。
事の発端は、海援隊の所有する蒸気商船いろは丸と、紀州藩所有の明光丸が瀬戸内海で衝突事故を起こしたことで、いろは丸は結局、曳航中に座礁沈没しました(これが実は、我が国近代史における海難事故を国際法に基づく裁判事例の走りともいわれています)。
ここで敗訴した紀州藩は多額の賠償金を海援隊側に支払わされ、それを恨みに思った紀州藩側は海援隊と陸援隊を差配していた坂本龍馬および中岡慎太郎を暗殺した(この暗殺が同年11月15日に起こった「近江屋事件」ですが)…という噂が立ちました。報復として海援隊・陸援隊が「いろは丸事件」で対応に当たった紀州藩士三浦休太郎の襲撃を計画します。一方これを恐れた紀州藩側は会津藩を通じて三浦休太郎の護衛を新選組に依頼し、実際に両者は激突することになります。
これが冒頭の「天満屋の騒動」と呼ばれる事件ですが、ちなみに本編「壬生義士伝」第9巻(斎藤一編)では、三浦の護衛をしていた新選組・斎藤一の視点を通して、この事件の真相(?)が描き出されています。

→初出 第7巻p024

公辺の安危
公辺の安危
(こうへんのあんき)

文語調なので難解ですが「公の周辺の安全を脅かす危機」といった意味です。つまり近藤勇の言葉をこの状況に照らして考えれば「ご公儀の生き死にに関わるこの瀬戸際に一体何を考えているのか」…と一喝したと捉えればよいでしょう。実際、近藤勇の心中も察するに余りあります。
二条城から追い出そうという留守居役の水戸藩士たちの発想も、逆に新選組を二条城に隔離して閉じ込めようとした幕府老中の思惑も、結果的には腫れ物に触るような「安全第一」であって、幕府の行く末を見定めたうえでの判断ではなかったわけですから。
要は「薩長にとっての悪玉」新選組を二条城隔離が得策か、どこか別の場所に放逐するか、さもなければいっそ新選組ごと解散させてしまうか…。ともかく大政奉還で幕府自体が揺らいでいる現在、主導権を握られた薩長に逆らわず(できれば)幕府側のこれまでの罪状はすべて新選組に押し付けてしまえ、という思惑がミエミエなのですから。

→初出 第7巻p025

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