壬生用語辞典

第5章 3話

御徒頭
御徒頭
(おかちがしら)

江戸時代における「下級武士」は「徒士(かち)」あるいは「御徒士(おかち)」と呼ばれていました。戦国時代以降には「足軽」つまり歩兵たちを指揮する「下士官」という役割だったようで、れっきとした士分。本来、武士としては扱われない足軽とはきっちり区別されていました。南部藩(盛岡藩)でも同様ですが、その中で百石取りの「御徒頭」は、百石以下の徒士(平士)の組を束ねる役割を担っていたようです。

→初出 第5章3話 p002

幕府医学館
幕府医学館
(ばくふいがくかん)

幕府直轄の「医学館」は、もともと将軍家の奥医師・多紀元孝(たきもとたか)が江戸神田佐久間町に設けた私塾(医学校)を、寛政3年(1791年)に幕府の直轄にしたものです。ただ、ここは基本的に漢方医学を教える学校でしたから、本編に登場する大野千秋は師である鈴木文弥がここで西洋医術を学んだと語っていますが(これはおそらく大野の記憶違いで)、そののちに鈴木が長崎で学んだ経験のほうが大きかったと思われます。
ちなみに幕末期の安政4年(1857年)、長崎に設立された幕府海軍伝習所ではオランダ人軍医であるヨハネス・ポンペを招聘し、初めて本格的な西洋医学教育が行われました。

→初出 第5章3話 p003

済生学舎
済生学舎
(さいせいがくしゃ)

明治9年(1876年)、本郷元町に開設された西洋医学の私立医学校で、後の日本医科大学の前身です。ただ基本的にこの学校は当時の、西洋医学に対応した開業医を早期育成するための「医術開業試験」合格を目指す、一種の予備校的存在でした。
ちなみに黄熱病研究でも有名な偉人・野口英世も医師免許を得るために、この済生学舎で学んだそうです。

→初出 第5章3話 p010

御茶の水女子高等師範
御茶の水女子高等師範
(おちゃのみずじょしこうとうしはん)

正式名称は「東京女子高等師範学校」。1890年(明治23年)に日本最初の女子中等教員養成機関「女子高等師範学校」として設立された、現在のお茶の水女子大学の前身です。
本編が語られた1915年(大正4年)時点では奈良、広島を含め日本の「三大官制女子高等師範」と呼ばれていました。

→初出 第5章3話 p024

光太太
光太太
(グアンタイタイ)

中国の清朝末から中華民国時代(中華人民共和国成立以前)、役人などの貴人階級の「奥様」というニュアンスで呼ばれていたのが「太太(タイタイ)」です。
中国語の「光(グアン)」は日本語よりずっと幅広い意味や用法がありますが「光太太」はこの場合、親愛の情を込めた「栄誉ある奥様」といった称号、でしょうか。

→初出 第5章3話 p027

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