壬生用語辞典

第5章 5話

神田お玉ヶ池・玄武館
神田お玉ヶ池・玄武館
(かんだおたまがいけ・げんぶかん)

「お玉ヶ池」は現在の千代田区岩本町付近にあった池で、池のほとりにあった茶屋の看板娘「お玉」が名前の由来とも言われています。もっとも、池そのものは江戸後期には神田山(駿河台)を削って宅地造成した折に埋立てられ、江戸末期には消滅していました。
この地が有名になったのは江戸末期、ここお玉ヶ池(跡地)に千葉周作が剣術流派・一刀流の各派を統合した「北辰一刀流」の道場「玄武館」を構えてからのことです。この北辰一刀流の評判は一気に沸騰し、門人は最盛期で六千人! というから驚きです。
ちなみに「一刀流」そのものは江戸初期、幕府が剣術指南役として召し抱えたことで隆盛を誇っていましたが、やはり「お玉ヶ池先生」の異名を持つ千葉周作の功績は多大なものがあったのでしょう。
また、このお玉ヶ池界隈には儒学者、漢学者などが多数住んでおり、江戸の学問の中心地でもあったそうです。

→初出 第5章5話 p002

瑶池塾
瑶池塾
(ようちじゅく)

幕末期の儒学者・東條一堂が北辰一刀流の道場・玄武館の西隣に建てた学問所で、儒学と詩文を教授したと伝えられています。立地的にも至便のため、数多くの玄武館道場生たちが(当然、吉村貫一郎も含めて)通ったと推察されますね。
ちなみに東條一堂という人物は、儒学者でありながら(封建的で観念的な)朱子学を強く批判し、当時の情勢を鑑みた「海防論」など実学にも深く通じた人物だったようです。その見識を買われて当時の幕府老中・阿部正弘の顧問役にも抜擢されました。

→初出 第5章5話 p003

藩校明義堂
藩校明義堂
(はんこうめいぎどう)

江戸時代、南部藩(盛岡藩)に設けられていた公式学問所のことです(慶応元年に「作人館」と改称)。基本的には士分以上の子弟だけが対象でした。教育方針は、水戸学を基本としていましたから、神道・国学を中心とした学問と、武道を尊ぶ「文武両道」路線だったようです。
ただ下級武士ながら文武共に抜群の才をもつ吉村貫一郎を藩校の先生(助教)に抜擢したくらいですから、かなり融通のきく革新的な校風も持ち合わせていたのでしょう。

→初出 第5章5話 p003

文弱
文弱
(ぶんじゃく)

ちょっと誤解されやすいので、念のために注釈を入れておきますが「文弱」というのは「文の道(要するに学問一般)に弱い」=学力不足の劣等生…という意味ではなく、むしろその逆です。
基本的には「学問にばかり耽っていて、弱弱しい者」のことを指しているのです。
ちなみにその真逆が「武骨者」つまり武芸には長けているけれど、学問や雅の道(芸事など)に疎い者、ということになりますね。

→初出 第5章5話 p004

奥州列藩
奥州列藩
(おうしゅうれっぱん)

ここでは「奥羽越列藩同盟」を指すものと思われます。
この同盟は1868年(慶応4年/明治元年)5月に仙台藩を盟主として東北(および越後)各藩の間で結ばれたものです。当初は同年1月に勃発した「戊辰戦争」によって会津藩および庄内藩は朝敵とされ、これを放免嘆願するために結ばれた同盟だったのですが、これが新政府(薩長)側の強硬姿勢によって退けられたため、結局は軍事同盟へと形を変えてしまいました。
ただ同盟の結束は弱く、各藩の事情によって足並みも揃わぬまま、東北へ進軍した新政府軍との戦闘は個別撃破され、同年9月末には実質的に同盟は瓦解してしまいました。

→初出 第5章5話 p024

秋田戦争
秋田戦争
(あきたせんそう)

本編中では吉村貫一郎の息子・嘉一郎が単身で南部藩(盛岡藩)に参陣し大手柄を立てたと言われたのが、戊辰戦争の終盤に久保田藩(および支援の新政府軍諸藩)と奥羽列藩同盟諸藩が激突した、のちに「秋田戦争」と呼ばれる戦闘です。
戦争の引き金は1968年(慶応4年/明治元年)7月、秋田・久保田藩が新政府「奥羽鎮撫隊」の命令に服して奥羽列藩同盟を脱退し、同盟の盟主であった仙台藩の使節を殺害したことで勃発します。
ただ基本的に久保田藩と戦ったのは庄内藩と盛岡藩で、仙台藩はこの戦争には参加していません。盛岡藩は一時期、久保田藩の藩境を突破・進撃するほど優勢でしたが、新政府側からの援軍投入や武器弾薬の供給で情勢は逆転。結局、盛岡藩は開戦の翌々月9月22日には久保田藩側に降伏しました。

→初出 第5章5話 p027

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