壬生用語辞典

第5章 6話

馬賊
馬賊
(ばぞく)

清朝末期以降、中国大陸を荒らしまわった無法者の盗賊団、満州国成立後は排日運動のために日本軍と衝突を繰り返した戦闘集団…といったイメージが強いのが「馬賊」ですが、本編でも大野千秋が手紙で解説した通り、本来の馬賊は中国東北部の村々が「自警団」として設立した組織が、やがて地域の用心棒を自称し、強請(ゆすり)を働くようになったのがそもそもの由来のようです。
だからこそ(?)大野千秋のいた大正初期の頃には、いくばくかの金を渡せば彼らは無体な真似もせず、存外に義侠心にも篤い…と当時の日本人にも評価されたのでしょう。

→初出 第5章6話 p003

蝦夷地
蝦夷地
(えぞち)

明治以前、日本人が北海道を「蝦夷地」と…本来の意味では「まつろわぬ民の住む土地」といった意味ですが…呼んだことはよく知られています。豊臣政権以降、ここは松前氏の領地(といっても、事実上の支配領域は蝦夷地の西南の渡島半島南端に限られていましたが)となりました。ところが19世紀前半、ロシアが南下政策によって当時のカラフトと蝦夷地まで進出すると、防衛のためにここは天領(幕府直轄領)となり、東北諸藩に防衛のため沿岸警備に当たらせるといった緊張状態となります。
ちなみにこの「蝦夷地」の名称は、吉村嘉一郎も参戦した戊辰戦争最後の戦い「箱館戦争」終結直後の1869年(明治2年)に、新政府によって「北海道」と改称されることになります。

→初出 第5章6話 p012

馬謖
馬謖
(ばしょく)

大野次郎右衛門が、大坂の盛岡藩蔵屋敷で吉村貫一郎に切腹を命じたことを、息子の千秋は「泣いて馬謖を斬る」と表現しています。
慣用句としては有名ですが、そもそもの出典は三国志…蜀の諸葛亮が、命に背いて魏に敗戦した(街亭の戦い)、愛弟子の馬謖を斬った故事から取っています。
「南部(盛岡藩)の軍律に背いて脱藩し、新選組に身を投じたものの、結局は鳥羽伏見の戦いで敗戦し、舞い戻って来た」吉村貫一郎を、組頭の(しかも竹馬の友である)大野次郎右衛門が「泣いて」腹を切らせたことと重ね合わせたのですね。

→初出 第5章6話 p025

対い鶴の昇旗
対い鶴の昇旗
(むかいつるののぼりばた)

盛岡藩(南部家)の家門が鶴の対面する意匠「対い鶴」で、この紋様を「昇旗(幟旗)」として掲げることは、敵味方を識別する戦場では当り前の慣習だったわけですが、それが藩祖の南部信直公から拝領した家宝の旗、となるとさすがに畏れ多いものだったでしょう。
また馬上の武士が背中に挿す旗は、俗に「旗指物(はたさしもの)」もしくは「旗印(はたじるし)」と呼ばれていました。
藩祖より伝わった由緒ある旗指物を背に、戦場を駆け回る馬上の吉村嘉一郎は、大野千秋も想像するだけで震えが来る勇姿だったことでしょう。

→初出 第5章6話 p034

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