壬生用語辞典

第六章 第2話

口入れ屋
口入れ屋
(くちいれや)

第6章の語り部でもある、元は大野次郎右衛門の奉公人(中間)でもあった佐助が、新宿で営んでいた職業(副業)です。現代でいえば民間のハローワーク…人材派遣業といえば簡単なのですが、当時(本編でいえば明治初期から大正にかけて)の事情は少し複雑なので、簡単に触れておきましょう。
佐助は江戸気質の人物なので(出身は南部ですが)「口入れ屋」という用語を使いましたが、厳密にいえば当初、この言葉は武家が臨時で雇い入れる奉公人(たとえば大名行列に担ぎ出される「渡り中間」など)の斡旋業を指していました。
これが転じて、当時の江戸の人材不足を補う派遣業…たとえば工事人足などの手配師なども指す用語となり、特に建築業などで人材が常時不足していた江戸へ職を求めて流れてきた無宿人の身元保証まで務める。一種の便利屋的役割まで果たすことになったのです。
…と、ここまでは真っ当な便利屋、「民間職業斡旋業」と考えればいいのだけど、これが地方の百姓から娘を買い上げて吉原や岡場所(非公認の私娼街)へ卸すなど、かなり阿漕な商売を営むヤクザ連中まで加わり、一部では「裏商売」的な様相も見せていきます。

時代が明治に移ると、1872年10月には東京府が雇用請宿規則を公布。本編が語られた時代である大正初期には職業紹介法も整備されますが、実際の(たとえば建設業の人足調達など)では、江戸以降の伝統である「口入れ屋」が多数、活躍していたようですね。

→初出 第六章 第2話 p012

渡世人
渡世人
(とせいにん)

一般的には「世の中を渡り歩く」俗にいうヤクザ者を表す言葉、裏社会のバクチ打ち…といったネガティブな表現ですが、ここでは(大正初期当時に)新宿で一家を構えていた語り部の佐助が、自分の立ち位置を卑下して使った言葉と考えた方がいいでしょう。
実は「壬生義士伝異聞」コーナーの第20回(新生明治は何でもアリ!)でも触れましたが、明治大正昭和…少なくとも戦前までは「渡世人」と「侠客」つまり「任侠の道に殉じて、強くをくじき弱きを助ける」人たちとの間に、きっちりとした線引きは難しかったのですね。
火消しの「いろは四十八組」もこうした侠客たちによって運営されていましたし、それこそ徳川慶喜の上洛に付き従った新門辰五郎、あるいは明治期の清水次郎長なんていう「渡世人の」有名人も輩出しています。
本編では、語り部である「大野組の佐助」の渡世人としての実像などは詳しく描かれていませんが、少なくとも現代でいう「反社会的勢力」や「暴力団」と同一視してしまうと、とんでもない誤解を招きかねません。

→初出 第六章 第2話 p013

大坂の御蔵
大坂の御蔵
(おおさかのおくら)

改めて言うまでもないでしょうが、これは南部藩の「大坂蔵屋敷」のことで、中間の佐助は主人の大野次郎右衛門に付き従って、江戸と大坂そして国元の盛岡を頻繁に移動していたわけです。藩の重鎮として財政を取り仕切っていた大野の活躍ぶりは本編でも詳しく描かれています。
余談ながら「天下の台所」大坂になぜ(江戸ではなく)諸藩が蔵屋敷を構えて物流を取り仕切っていたいたかというと…一つには江戸に比べても(豊臣政権以来の)自由な掲載活動が保証されていたこと…たとえば堂島の米先物市場など世界にも類を見ない進んだシステムや、海運を中心にしたインフラストラクチャーが整備されていたことなどが挙げられますね。

→初出 第六章 第2話 p021

天然理心流
天然理心流
(てんねんりしんりゅう)

新選組の剣客たちが結集したことで、幕末に一躍有名となった剣術の流派です。開祖・近藤内蔵助が江戸に道場を構えたのは寛政年間といいますから、18世紀末から19世紀初頭…流派としては比較的新しいですね。
天保3年(1839年)に、近藤勇の養父である近藤周助(三代目)が、現在の新宿区市谷柳町に試衛館道場を開設。四代目・近藤勇の時代に門弟として、のちの新選組中核メンバーとなる土方歳三や沖田総司、井上源三郎、山南敬助などなど、錚々たる剣客たちが終結しました。本編「斎藤一編」にも描かれていますが、幕末当時はきわめて実戦的な剣術が(ほかに棒術や柔術なども取り入れていたそうですが)特徴的な流派だったようです。

→初出 第六章 第2話 p032

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