壬生用語辞典

第六章 第5話

南部二十万石 南部二十万石
南部二十万石
(なんぶにじゅうまんごく)

幕末の南部(盛岡藩)は、知行二十万石の大藩でした。といってもどれだけの規模だったか分からないので比較すると、おおよそ山内家の土佐藩がおよそ二十万2600石で同じ規模でした。ちなみに当時の度量衡で考えると「一石」というのは、単純に考えれば一人が一年分に食べるコメの量が基準ですから、南部(盛岡藩)は20万人もの領民を養う余裕があった、とも考えられます。
ただ、実はこれには裏事情がありました。どうも南部の殿様は、隣国仙台藩(伊達家)と歴史的にライバル意識があったようで、仙台藩六十二万石に対抗して盛岡藩も江戸時代初期の十万石から文化5年(1808年)に二十万石へと石高の「高直り」を強行したのです。ただ、実質石高はほとんど変わりませんから、幕府から命じられる賦役(軍役など)が増えただけで、藩財政はかなり逼迫せざるをえませんでした。
吉村貫一郎が藩校教授なのに足軽身分のままで、結局は脱藩せざるを得なくなったのも、裏にこういった事情があったし、本編で佐助が「石高なんてのァ絵に描いた餅みてえなもんさ」と呟いたのも、実に含蓄ある言葉に響いてきますね。

→初出 第六章 第5話 p009&014

奥羽列藩
奥羽列藩
(おううれっぱん)

1868年(慶応4年=明治元年)、薩長政府によって「朝敵」と断罪されてしまった会津藩の赦免を求め、東北諸藩が結成したのが「奥羽列藩同盟」です。その後、庄内藩や長岡藩なども加わり「奥羽越列藩同盟」として再結成されたため、現在はこの名で呼ばれることが多いようですね。
同盟諸藩が、これを軸に戦った戊辰戦争の経緯については、本編「中間・佐助編」で直接、佐助の口から語られますのでここでは省きますが「脱藩の汚名を背負った」吉村貫一郎の息子・嘉一郎がなぜこの戦に参陣し、最期の地・箱館で散華したのか、その背景は本章でじっくり語られますので、ぜひご注目ください。

→初出 第六章 第5話 p015

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