壬生用語辞典

第六章 最終話

雫石口の陣
雫石口の陣
(しずくいしぐちのじん)

5章「大野千秋編」でも触れましたが、戊辰戦争末期の明治元年(1868年)8月に、奥羽列藩(奥羽越列藩同盟)に加わった南部(盛岡藩)が、新政府側に付いた秋田藩に攻め入ったのが秋田戦争(秋田打入り)で、その末期の戦が「雫石・橋場口の戦い」と呼ばれています。
ここでいう「雫石口の陣」は、実は秋田藩に加勢合流した官軍側(奥羽鎮撫隊)によって最初は攻勢だった南部勢が秋田藩との藩境から押し返され、攻め込まれていた時点での陣だったのです。結局一進一退の攻防の末、南部勢は盛岡藩領・雫石の橋場口(現在の岩手県岩手郡雫石町橋場)まで押し返される「退き戦」となり、9月末には降伏(正式には10月15日に盛岡城を開城)します。
本編ではこの秋田戦争に参陣した吉村嘉一郎が雫石口から家老の楢山佐渡の本陣へ伝令に赴き(結局、辿り着いた先は大野組の陣屋だったのですが)そこで次郎右衛門から「南部側の降伏」を知らされる…という場面が描かれることとなります。

→初出 第六章 最終話 p002

楢山佐渡様 楢山佐渡様
楢山佐渡様
(ならやまさどさま)

幕末の南部(盛岡藩)家老で、嘉永6年(1853年)には江戸時代最大規模の農民一揆(三閉伊一揆)を収め、藩政改革を為した名家老としても知られていましたが、幕末の戊辰戦争では奥羽列藩(奥羽越列藩同盟)側に付き、藩の総責任者として明治2年(1869年)斬首されました。
『壬生義士伝』本編中では「薩長との対立路線を主張した大野次郎右衛門にたぶらかされた」といった世評も描かれていますが、実際には元々、楢山佐渡自身が京都守護で上洛した折に体験した薩長の振舞いへの反発が強く、奥羽越列藩同盟の結成から秋田戦争での奮戦まで、終始反薩長の方針を積極的に推進した人物だったともいわれています。

→初出 第六章 最終話 p011&019

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