壬生用語辞典

第七章 第2話

試衛館・天然理心流
試衛館・天然理心流
(しえいかん・てんねんりしんりゅう)

『壬生義士伝』本編でも幾度となく登場した、剣術の一流派とその道場の名称です。開祖・近藤内蔵之助が江戸に道場を構えたのは寛政年間といいますから、18世紀末から19世紀初頭…流派としては比較的新しいですね。
天保10年(1839年)に、近藤勇の養父である近藤周助(三代目)が、現在の新宿区市谷柳町に試衛館道場を開設。四代目・近藤勇の時代に門弟として、のちの新選組中核メンバーとなる土方歳三や沖田総司、井上源三郎、山南敬助などなど、錚々たる剣客たちが集結しました。
第三章「池田七三郎編」や第四章「斎藤一編」にも描かれていますが、幕末当時はきわめて実戦的な剣術が(ほかに棒術や柔術なども取り入れていたそうですが)特徴的な流派で、そのせいか世評では「ただの人殺しの田舎剣法」呼ばわりされていたようです。

→初出 第七章 第2話 p09

箱館の戦
箱館の戦
(はこだてのいくさ)

旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争最後となる激戦で、北海道(蝦夷地)函館(当時は箱館)で慶応4年(明治元年/1868年)10月から翌明治2年5月18日にわたり繰り広げられました。「箱館戦争」とも呼ばれています。
戦の経緯や結末は『壬生義士伝』本編に譲りますが、新政府側の政庁である箱館五稜郭を旧幕府連合軍が占領し、この地に「蝦夷共和国」の樹立が宣言されたり(ただし英仏列強は最終的に承認せず)、旧幕府の軍事顧問団ジュール・ブリュネほかフランス軍人らも蝦夷共和国軍に参戦したことなど、さまざまな興味深いエピソードが残されています。

→初出 第七章 第2話 p11

大久保某
大久保某
(おおくぼなにがし)

居酒屋・角屋の親父が語った「大久保某(なにがし)」というのは、鳥羽伏見の敗戦の後に、大坂から徳川慶喜一行の幕府軍と共に江戸へ戻った近藤勇が、同年(慶応4年・1868年)に新選組を「甲陽鎮撫隊」に改組を命じられたとき、幕府から賜った名前です。
正しくは「大久保大和守剛(または大久保大和)」。また土方歳三は「内藤隼人」の名を賜りました。
実はこのあたりの事情は、本サイトの「壬生義士伝異聞第1回 新選組局長・大久保剛…って…誰?」でも詳しく紹介しているのですが、近藤が「大和守」(つまり現在の奈良県の国守)なんて大層な名前を賜ったのも、五千両もの下賜金を頂戴して甲府へ鎮撫隊として出立させられたのも、要は官軍(薩長軍)が江戸へ攻め入ってきて、仇敵の元新選組と激突するのを避けるため。…と、このあたりの事情は本編で角屋の親父が詳しく解説してくれていますので、そちらをお読みください。

→初出 第七章 第2話 p14

鷲ノ木の浜
鷲ノ木の浜
(わしのきのはま)

北海道渡島半島の付け根あたり、東西に分かれた東側(亀田半島)にある、駒ヶ岳の西に位置する浜辺です。ちょうど箱館から見ると20キロほど真北に位置しています。
ここへ旧幕府軍が上陸したのは、当然南側(箱館府側)には新政府軍が待ち構えていることを予想してのことです。その後上陸した旧幕府軍(土方隊)は内陸を抜けて南下し、新政府軍の駐留地(箱館府)がある五稜郭へ進軍することになります。本書でも描写された通り、結局この進軍中に予想していた戦闘はなく、無血開城のような具合で土方隊は五稜郭へたどり着くのですが、これは別動隊(大島隊)が先に峠下(駒ヶ岳の南側付近)で新政府軍と激突、新政府側が箱館府を放棄して一旦、青森へ退却したためです。

→初出 第七章 第2話 p22

五稜郭 五稜郭 五稜郭
五稜郭
(ごりょうかく)

箱館戦争で、旧幕府軍が最初に「無血入城」した本拠地です。そもそも幕末の元治元年(1864年)、松前藩から蝦夷を直轄地とした幕府が箱館奉行所として建設したものです。五角形の独特な城郭は西洋式の近代要塞を模して設計されたもので「稜堡式要塞」とか「星型要塞」と呼ばれた形式です。随所に設置された出っ張りから、攻め寄せてくる敵をさまざまな角度から狙撃・砲撃できる構造になっていました。
設計当時は外国船打ち払いの「攘夷運動」まっただ中でしたから箱館港からの艦砲射撃を防ぐため港からかなり内陸寄りに建設されました。
ただ(本編で居酒屋・角屋の親父が語っているように)、急作りの施工不良もあって堡塁の嵩上げが間に合わず結局、大砲を撃ち込まれた際の防御力が不足しており、最終決戦の折にはここを出て、わざわざ西南に位置する弁天台場へ旧幕府軍は移動して戦う羽目になりました。このあたりの経緯は本サイト「壬生義士伝異聞」第15回「無敵要塞、あっという間に陥落!」でも詳しく解説しております。

→初出 第七章 第2話 p26

戻る TOP