壬生用語辞典

第七章 第3話

大間の岬・湯の川の浜
大間の岬・湯の川の浜
(おおまのみさき・ゆのかわのはま)

箱館戦争へ参陣しようと吉村嘉一郎が辿った航路が、この大間の岬(現在の青森県・下北半島の北端にある岬)から出発し、湯川の浜(現在の湯川漁港・函館山から約4キロ東の浜)というルートだったようです。
故郷の南部から下北半島へ抜けたのち、蝦夷地(北海道)の箱館(現在の函館)へたどり着くには最短コースですが、それでも津軽海峡を30キロ弱、渡らねばなりません。
旧幕府軍が五稜郭を占領したのが慶応4年(明治元年・1868年)10月末ですから、その後に箱館へたどり着いた吉村嘉一郎は、おそらく厳冬期の津軽海峡を小舟で単身、漕ぎ渡ってきたものと推察されます。生半可な覚悟では決行できぬほどの危険な渡航であったことは言うまでもありません。

→初出 第七章 第3話 p04

中島三郎助 中島三郎助
中島三郎助
(なかじまさぶろうすけ)

本編でも、記者は「箱館総攻撃のとき、最後まで降参せずに玉砕した千代ヶ岡陣屋の」大将…と語り、また居酒屋・角屋の親父は「元は浦賀の与力だった〜」と紹介していますが実のところ、この人物は(主観的な評価は様々ですが)「浦賀の与力」時代の活躍の方が、歴史的には有名だったりします。
というのは、この中島が浦賀奉行与力見習として幕府に召し抱えられていた嘉永6年(1853年)に、ペリー提督による浦賀来航事件が勃発。このときに中島は艦隊の旗艦サスケハナ号に通詞とともに乗艦し、アメリカ側との交渉役に当たっているのです。
…もっともこの折には(一介の浦賀奉行所の与力だったにも関わらず)自らを浦賀奉行と称して(詐称して?)応対したり、あるいは黒船の構造や蒸気機関、武装などを詳細に調査してアメリカ側からスパイ容疑をかけられたり…と、何かと物議を醸したのも確かなようですね。

ただ、この体験が元となって中島は、のちに幕府長崎海軍伝習所の一期生となり造船学や操船術などの分野で幅広く幕府海軍の重職を担うこととなりました。実は、海軍総裁の榎本武揚と共に、戊辰戦争末期に軍艦を率いて箱館戦争に参戦することになったのも、こんな経緯があったからです。かくしてその最期の模様は…そちらは本編をご覧ください。

→初出 第七章 第3話 p11

千代ヶ岡陣屋 千代ヶ岡陣屋
千代ヶ岡陣屋
(ちよがおかじんや)

前項の通り、本編では記者が「箱館総攻撃のとき、最後まで降参せず玉砕した」と語った陣屋です。
ちなみにこの箱館戦争で、旧幕府軍(蝦夷共和国軍?)の拠点陣地は、五稜郭のほかに箱館山(現函館山)の北端に設置した弁天台場、そして五稜郭の北に権現台場、西南に設置した千代ヶ岡陣屋がありました(箱館戦争最終盤には、このほかに五稜郭の北方に急遽、四稜郭が設営されました)。この千代ヶ岡陣屋は、箱館湾に面して五稜郭の前衛を守る砦の役割があったのですが、居酒屋・角屋の親父に言わせれば「いざ砲戦になりゃあ何の役にも立たねぇ」ただの土塁を板塀で囲っただけの陣地だったようです。

→初出 第七章 第3話 p11

榎本武揚
榎本武揚
(えのもとたけあき)

箱館戦争では旧幕府海軍を率いて蝦夷地を占領。蝦夷共和国(または北海道共和国)の総裁となった人物です。敗北後に降伏し、投獄されますが敵将・黒田清隆により助命。二年半の投獄後に釈放されたのち明治新政府の重職を歴任することになります。

→初出 第七章 第3話 p16

寺銭
寺銭
(てらせん)

時代劇ではおなじみの用語ですが、念のために解説しておきます。
「寺銭」とは要するに明治時代以前(賭博はお上…つまり為政者にとっては建前上、非公認の犯罪行為でした)、主に博徒たちが開帳していた賭場で主催者側に支払われるマージン、と考えてください。なので本編の場合、ヤクザに代わって「蝦夷共和国」自身が住民から博打の「ショバ代(場所代)」を幾ばくか徴収したということになります。
ちなみに賭博の場所代を「寺銭」と呼ぶ理由は、江戸時代では主に寺社で博打を開帳することが多かったからです。つまり寺社は建前上、勘定奉行の管轄だったので、たとえば各藩の取り締まりなどが及びづらかったのですね。

→初出 第七章 第3話 p17

甲鉄艦
甲鉄艦
(こうてつかん)

「甲鉄艦」というのは鉄製装甲艦の一般名称ですが、ここでは明治2年(1869年)に明治新政府が、アメリカ海軍から引き渡された軍艦を指します。大砲3門に艦首には衝角(ラム=体当たり用の武装)まで備えた当時の最新鋭艦で、本艦を旗艦として同年3月、新政府軍は箱館に進軍すべく軍艦4隻を現在の岩手県宮古湾に集結させました。
この甲鉄艦を奪取しようと土方歳三以下約100名の兵が3隻の軍艦で急襲したのが後に「宮古湾海戦」と呼ばれる戦です。結果的に「甲鉄艦」奪取は新政府軍の猛攻を受けて失敗し、多大な犠牲を出して土方たちは箱館に撤退することとなります。

→初出 第七章 第3話 p18

弁天台場
弁天台場
(べんてんだいば)

旧幕府軍の防衛陣地で、南に突き出した半島である箱館山の北端に置かれた旧幕府軍の防衛拠点が弁天台場です。
明治2年(1869年)5月11日に、陸軍参謀・黒田清隆の率いる700名の官軍は、夜陰に乗じて2隻の軍艦をこの箱館山の西北に乗り付け、強行上陸に成功させます。これを許してしまった旧幕府軍(新選組)は弁天台場に逃げ込んで応戦。救助のため土方歳三は50名ほどの隊士を率いて五稜郭から弁天台場目指して壮絶な斬り込みをかけることになるのです。この「箱館山争奪戦」つまりは「弁天台場をめぐる戦い」こそが、事実上の箱館戦争の勝敗を決める最終局面でした。
箱館戦争は別称「五稜郭戦争」などとも呼ばれますが、結局その本丸たる五稜郭は旧幕府軍にとっては最終防衛拠点たりえず、土方たち新選組隊士たちが五稜郭から討って出た「死に場所」も、この弁天台場の攻防戦となったのです。

→初出 第七章 第3話 p39

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