本章3話の解説にも登場した、二代目・吉村貫一郎(初代吉村貫一郎の次男)を引き取り養育した越後の篤志家で豪農の江藤彦左衛門が所有していた田畑の単位です。吉村が語ったようにこれは単純に「大地主の長者」の例えに用いた用語ですが、昔の尺貫法で面積を表しているので、現代人には少々ピンときません。
尺貫法は「その土地から穫れる収量」を基準に考れられています。単純計算で「一町歩」=「十反歩」=約1万平方m(1ha)と考えてください。
また「一反歩」は300坪。ここから収穫できるコメが基本的に一石(およそ米俵で2.5俵=180kg)でした。ざっとですが、一俵(約60キロ、400合余)で人間一人が1年生活できると考えれば、一石あれば家族三人(夫婦に子供一人)がギリギリ何とか養えます。
この基準だと、戦前に一千町歩を所有していた豪農は、ざっと一万世帯の小作農の生活を支えていた…という計算になりますね。
余談ながら現代の農業技術で一反歩から、コメがどの程度収穫されるかというと約500kg(気候や品種等によっても異なりますが)。毎日1杯150gを3食365日食べても約6人分の量になります。
→初出 最終章 最終話(p10)
ここで(二代目)吉村貫一郎が「大坂での御蔵役」をなさっていた「大野千秋先生のお父上に当たる方」というのは(初代)吉村貫一郎の竹馬の友でもあり、戊辰戦争の折には大坂の南部藩蔵屋敷差配役として、駆け込んできた吉村に切腹を命じた大野次郎右衛門を指しています。
(南部藩に限らず)各藩の蔵屋敷差配役は「武家が賤業である商いに手を染めることを潔しとしない」風潮が強く、蔵屋敷に回漕される蔵米の売買に際しては大坂の仲買人たちに丸投げするのが通例でしたから収穫期一斉に市場に出回る米相場など、商人たちの好きなように安く買いたたかれるのが常でした。大野次郎右衛門はこの風習を改め、自ら相場に手を染め、藩財政改革に寄与した…とされたようです。
ただ、藩政に重責を担わされたことが、結果的に戊辰戦争での「奥羽越列藩同盟」参加と官軍への抵抗の責任を一身に背負わされる結果ともなってしまうのですが…。
→初出 最終章 最終話(p11)
旧南部藩領で、盛岡市周辺や遠野盆地を中心に多く見られる、家人の居住する母屋(畳間や板の間)と馬屋が一体となったL字型の住宅を指します。一般的に台所と土間を挟んで、その先に馬屋が出っ張った構造になっています。馬屋の屋根には破風(はふ-屋根の端に取り付けられた板)があり、かまどや炉でたく煙をはそこから排出され、このため馬の背や屋根裏の乾し草を乾かすことができます。
→初出 最終章 最終話(p12)