壬生義士伝異聞

第7回
大貧乏南部藩、原因はバブル崩壊!?

そもそも『壬生義士伝』で、なぜ吉村貫一郎が脱藩・出奔して新選組に身を投じたのかといえば、何より南部(盛岡藩)が「貧乏だったから!」の一言に尽きます。
ともかく藩の財政が苦しい! だから文武両道に秀でた有為の人材にさえ、まともな家禄を出せなかった。
なにせ吉村のような北辰一刀流の免許皆伝で、しかも藩校で教授まで勤めたという逸材に、「二駄二人扶持の小者」という足軽並みの待遇しか与えられなかったのですから。
…ちなみに「二駄」というのは「馬二頭分」の意味です。江戸期以前だと馬一頭が、俵二つを振り分け荷物として運んだので、合計4俵のコメということになります。
一俵はコメにしてだいたい5斗(50升=75キログラムくらい)ですから、二俵だとおよそ十斗(百升=150キログラム)。実はこれが「一石」で、一人が一年で食べるコメの基本単位でした。マトモに考えたら一日に換算するとおよそ一人がコメ五合(500グラム)で生活しろ、ということ。まさしく生きるのにギリギリの俸給だったワケです。
(もっとも、吉村はこの「荷駄二人扶持=四俵」のほか別途に生活費(米)として「扶持米」を支給されていたようですから、『壬生義士伝』の語り部だった竹中正助の計算によれば、併せて俸禄は年に14俵ほどになったようです)。

本編カット
コメが穫れたって大飢饉なの!

ここで改めて考えるけど、なぜ南部はこんなに貧しかったの?
……
なんか東北って、昔からすっげー貧しかったのが常識みたいに考えられてるけど、そのイメージは案外、江戸時代以降に固まったらしいのです。たとえば鎌倉時代あたりだと、奥州藤原氏が支配していた東北一帯は(源義経が兄貴の頼朝に追われて亡命したくらいで)黄金がドカドカ採れる「エル・ドラド」みたいなイメージだったんですよ。

じゃあ「貧乏東北」イメージは、なぜ固まったのかと言うと…。
結局江戸期の「コメ経済本位システム」が定着すると、東北=米作農家の収穫量が少ない! しかも凶作続きの土地だぞアソコは! というイメージが固定してしまったのが元凶みたいです。
たしかに東北・南部(を中心とした太平洋岸)といえば夏の「やませ」と呼ばれる冷風がもたらす凶作が頻発した土地柄だしね。かの宮澤賢治も「サムサノナツハ オロオロアルキ」なんて詠ってたし。…だけどはたして「南部貧乏」の原因はそれだけなのでしょうか?

実はこの南部(盛岡藩)、幕末には知行二十万石、という大藩だったのですよ。
…とはいうものの…格好はいいけど、高い家格のせいで出費も多かったのです。
幕府からは「オマエのとこは大藩なんだから面倒を見ろ」と、北海道(蝦夷地)防衛を幕府から押しつけられ、出兵させられて財政圧迫…そこへ、かの有名な「天保の大飢饉」が襲ってきて餓死者続出! というのが吉村貫一郎が登場する直前の盛岡藩だったわけです。
けど、こと「天保の大飢饉」の大災害に関する限り、あながち盛岡という土地がもたらした天災とばかりは言えないようです。というのは、そもそも財政補填のために、藩は米価の高い江戸へ向けて買米制度で米を強制的に移送してたらしいのです。
だから、いざ飢饉の際に放出するはずだった救済用の備蓄米まで空っぽだった! 要するに藩の財テク(なつかしいでしょ、この言葉)失敗のツケが回った結果が大飢饉だった、というのが真相みたいです。

見栄がバブルで火の車

そもそも、盛岡藩「知行二十万石の大藩」ってのも、実は結構ウラがあったのです。
実は、盛岡藩の殿様(南部氏)ってのが、どうも代々隣りの藩(仙台藩)の伊達家へのライバル心が強かったらしくて、その見栄から官位の叙任工作でムダに出費したり、さらに文化5年(1808年)には石高の「高直り」を強行したワケです。
…つまり江戸時代初期は石高十万石だったのに、実質的な加増もないまま二十万石へ引き上げたのです。こうなると、幕府から押し付けられる賦役負担が増えるだけ! になります。実際、しなくてもいいはずの北海道(蝦夷地)防衛なんて駆り出されたし。
要するに見栄を張ったおかげで藩の財政が火を噴いた…なんか、「粉飾決算で外見は取り繕うけど、内実は火の車」という、ダメ経営者のせいで傾いた会社を連想してしまいますね。
身もフタもない言い方だけど…結局、吉村貫一郎にすれば、藩の見栄っぱり財政のツケで家族のために出奔を余儀なくされたなんて、本当にいい迷惑! というオチでした…。
さて次回は「貧乏or金持ち」つながりということで、新選組隊士の懐事情について、ちょっと探ってみましょう。

→次回
【隊士は貧乏? お大尽?】に続く
イラストカット
2022.04
『壬生義士伝』執筆状況

「居酒屋『角屋』の親父2」
執筆完了 現在鋭意編集作業中

配信開始は 6月3日(金曜日)より!

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