壬生義士伝異聞

第11回
がんばろう福島の沖田君…と黒猫!

新選組人気が、すでに「ブーム」ではなくなって久しく、『壬生義士伝』主人公の吉村貫一郎をはじめとして、孤高の剣士・斎藤一や爽快男子の永倉新八、豪放磊落な原田佐之助などなど、幾多の隊士たちにも(…ことに女子たちの間で?)ファンがつくようになりましたが、やはり当初からの金看板といえば近藤、土方、沖田の三人組です。
別に本コーナーで彼を避けてたワケではないのだけど、なぜか沖田総司クンのことを扱ってなかったので、今回まとめて触れておきましょう。

福島凱旋で大暴れ…ならずの沖田君

さて近藤勇・土方歳三とともに、「試衛館道場」出身トリオで語られることの多い沖田総司ですが、実は前の二人が多摩の豪農出身だったのに対して、沖田君だけは武士階級…しかも、れっきとした陸奥白河藩士の子で、不確かながら白河藩江戸藩邸で生まれたという記録があります。
父は沖田勝次郎という名で(足軽頭の出身だった、ともいわれていますが)、お姉さんが二人いたようです。ちなみにお父上は明治維新より10年以上も前に死去しています。
本来なら長男の総司クンが家督を継ぐべきだったのでしょうが、沖田家の場合はお姉さんが婿を取って継いだらしく、結局総司君は預けられた試衛館道場で近藤たちと出会い天然理心流の剣士として大成、二十歳にして塾頭となりました。ことに彼の繰り出す超速の三段突きは、誰にも受けられぬ程の威力だった、とか。
かくして総司君はのちに浪士組に加わった際に脱藩出奔した、という扱いになったと思われます。

本編カット

ちなみに白河藩といえば現在の福島県。当時は会津に次ぐ大藩で、かの有名な寛政の改革を断行した幕府老中・松平定信を輩出した地でもあります。また幕末・戊辰戦争の折の一大激戦地「白河の関」も有名です。
(彼にとっては生誕の地、ではないけれど、一応は父祖の出身地でもあるワケから)ここで故郷の危機に、沖田君もかつての新選組同志たちと共に、旧幕府軍として参加して白河口の攻防戦で大奮戦!…は、残念ながらできませんでした。彼は既にこの時期(慶応4年・1968年)には持病の労咳が悪化して戦線離脱。その年の内に、江戸で亡くなってしまいましたから。

本編カット
天才「美少年剣士」の素顔とは…?

余談ながら、彼の悲劇的な境遇…労咳(結核)で志半ばにして夭逝した天才というイメージもあいまって沖田総司クンは「超クールな美少年剣士」という描かれ方をしていますが…まあ、本編『壬生義士伝』もその例に漏れませんが…実際、本当に彼は美少年だったのか、という論議はけっこう最近まで延々続いていました。
なにせ「武骨一徹を人相にしたような」近藤勇や「洋装の超イケメン」五稜郭時代の写真が遺されてる土方歳三と違って、信憑性ある遺影が一枚もない沖田総司だから、結局は関係者の証言くらいしか、彼の風貌を知る方法もない。

「ヒラメのような顔」だったという「ブサメン証言」も残っていますが(実はこれ、彼のひ孫にあたる人物の発言だったらしいのだけど)、いやこれは「目と目の間が離れていたという意味での発言だった」とか何とか異説があってはっきりしない。
元新選組隊士の証言では「色黒で背が高く、いかつい男だった」というのも残っているようですが、これはこれで「色白、小柄だった」という証言とも食い違ってしまう。
ちなみに(ちょっと調べればすぐ、ゾロゾロ出てくるけど)彼の遺影とか肖像画と称する写真は結構あるのです…残念ながら信用できるもの(撮影日時や撮影者がはっきりしているもの)は皆無! 明治時代に入って、幕末風俗を模写した写真から適当にコラージュして「美少年剣士・沖田総司はコイツ!」とデッチ上げた怪しげな代物まで混じってますから玉石混交、つか「玉」になる証拠写真は現時点では存在しません。

唯一、総司クンの血筋の…実のお姉さんのお孫さんだそうです…面影を残している方をモデルにした肖像画(要は想像図にすぎないんだけど)が一番ソレっぽいようなのですが、まあ顔は下膨れで「美少年」というにはあまりにもナニ、なんですよね。イメージが違いすぎて。一度御覧になれば納得できるはず。 まあ、結局のところ、時代も下って記憶も薄れ、沖田総司とはどんな顔をしてたのか、は永遠の謎のまま、新選組女子の皆様によって創作され続けるのが一番よろしい! というごく平凡当り前な結論に辿りついてしまいました、ゴメンナサイ。

…と、沖田総司クンの「美少年伝説」ネタを延々と引っ張ったら、ちょっと話が長くなりすぎてもうひとつの「沖田君とネコ」の話を入れられませんでした! というワケで沖田総司伝説、次回に続きます。

→次回
【今度こそがんばろう沖田君…の黒猫!】に続く
戻る TOP