壬生義士伝異聞

第16回
御開化「医業」苦闘物語

最新刊「大野千秋編」は、吉村貫一郎の竹馬の友でもあった南部藩(盛岡藩)家老・大野次郎右衛門の子息である大野千秋を通して、貫一郎の藩校助教時代の記憶や、千秋の親友でもあった吉村嘉一郎のことなど、知られざるエピソードが語られます。
さて戊辰戦争で負け組となった南部藩は戦の責をとって家老・大野次郎右衛門らが処刑されたのちに、時代は明治維新を迎えます。当然といえば当然なのだけど、薩長の「官軍」と対峙した奥羽越列藩同盟側の南部藩出身者への明治新政府の仕打ちはすさまじく、故郷を後にして江戸改め東京へ出た大野千秋は、父次郎右衛門の縁をたどって開業医の鈴木文弥の下で、医術を修めて開業医となります。
…さてここで問題です。この時代に職業として「医者」になるには、どんなルートがあったでしょうか?

本編カット
「試験一発で合格!」予備校出身者が医者の半分?

まあ、江戸時代であれば医学といっても主体は漢方医術で、西洋医学…つまり当時の蘭学医といえば(江戸中期以降のことだけど)主に外科の分野でしか活躍は許されませんでした。当然ながら取り立てて「国家資格」なんてモノはなかったし、修行ルートも幕末の御典医(とか藩医)なんかは藩命でオランダ商館…つまり出島のあった長崎なんかに遊学して医術を学ぶしかなかったワケですね。あとは大坂で開塾していた私塾(たとえば緒方洪庵の適塾)に入門するとか。
極端に言えば「オレは医者だ!」と勝手に名乗ってもOKだった…もちろん周囲が認めるかどうかは別だけど。ただ、当時の社会的地位から考えたら、お医者「サマ」なんて偉そうに名乗れるほど高い立ち位置でもなかったのは確かですね。
なにせ天下の幕府お抱えで、江戸城に詰める偉い御典医にしてからが「法眼(ほうげん)」…つまり「坊主や連歌師、絵描き」と同レベルの扱いでしかなかったんだから。

ところが明治維新で状況は一変! 漢方医学は排除され、欧米に倣って西洋医学を導入し、一気に文明開化じゃ! という社会状況になってしまった。ここでドイツ医学とイギリス医学、どちらを採用するかでドタバタ悶着があったり、福沢諭吉先生が慶應義塾医学所を設立してイギリス医学を伝授したけど(明治6年)7年後に廃校になったり…と、官民ドタバタ抗争やら何やら、けっこうオモシロイ裏話もあるけど、長くなるからここではカットしましょう。

ナニはともあれ、医師免許も国家資格もさっさと決めなきゃ西洋にバカにされる!
と、1875年(明治8年)に、当時の内務省によって開始されたのが「医術開業試験」で、この制度はその後1916年(大正5年)まで続きます。
面白いのはこの試験、受験資格が「1年半の修学」というだけで、極端にいえば「独学で修行をしました!」という医者の卵でも、試験一発パスすれば堂々と医者になれたワケです。今みたいにメチャ難関の入試をパスして大学医学部へ入って6年、それから国家試験に合格して、さらにそののち臨床研修医として2年以上…なんて面倒な手順を踏まなくてもOKだったワケですね。

ここで大活躍するのが明治時代の「受験予備校」です。
実は『壬生義士伝』大野千秋編の主人公でもある千秋氏も、恩師・鈴木文弥の下で修業したのち、この(今でいえば)医術試験の受験予備校である「済生学舎」に学んで医術開業試験にパスした口ですね。ちなみにこの済生学舎というのは1876年(明治9年)、本郷元町に開設された西洋医学の私立医学校で、後の日本医科大学の前身でもあります。
原作にも書かれているのですが、帝国大学出身の高邁なお医者様(この方々は医術開業試験は受験免除されてました)とは別に、この済生学舎は30年間の歴史の中でおよそ1万人もの「町医者」たちを世に送り出したのです。たいへんな数ですね。
ちなみに別の資料では、大野千秋が満州で開業していた大正初頭の西洋医約3万人のうち、この試験合格者は約1万5000人、医学専門学校等の卒業者約1万2000人、そして帝国大学卒業者は約3000人だった、とあります。

本編カット
お札の偉人にも流れる「会津の意地」!?

余談ではありますが、黄熱病研究でも有名な偉人・野口英世もこの「医術開業試験」をパスするために、この済生学舎で学んだという記録があります。実は彼はこの開業試験の前期試験(筆記)には「独学で」合格したものの、後期試験は(実技の臨床試験のため)さすがに独学では合格不可能…ということで半年間、済生学舎で学んだとのこと。ただ、この学費を捻出するために、かの偉人はかなり強引な(ヤバい)手を使ったようです。彼は結構カネ遣いが荒かったし、女癖も悪かったようだけど…ま、それは本コラムとは関係ないから省略!

ただ正直のところ貧困家庭の出で、しかも会津出身だった野口英世もまた、中央の医学界で活躍する場は与えられず、一時期は北里柴三郎が所長を務めた伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)に勤務するものの便利屋で使われただけ…で、彼は結局、達者な語学の才能を生かして渡米。のちにロックフェラー医学研究所で、日本人にもよく知られた医学的な偉業を次々と成し遂げることになるのですね。

ここでちょっと興味深い事実をひとつ。
1899年(明治32年)から翌年にかけて一時期だけど、野口英世も国際ペスト防疫班の一員として清国に渡っているのです。実はこのときの研究業績が元になって、北里柴三郎の紹介もあり彼はアメリカに渡ることになるのですが。
つまり『壬生義士伝』で大野千秋が満州へ渡ったのが1894年(明治27年)とすると、その5年後に野口英世もまた中国大陸へ渡り、同時期に現地で治療に当たっていたことになります。

現地の人々のために身を捧げ、大陸で骨をうずめる覚悟で渡った大野千秋と、出世のためのチャンスを求めて大陸へ行った野口英世…二人の性格も動機も、まったく違うのだけれど、その根底には共通する「奥羽越列藩同盟側として逆賊の扱いを受けながらも、生きる意味を見出して苦闘した東北人の意地」のようなものを感じてしまいますね…。

さて次回は、大野千秋が満州で医療に当たった大正から昭和、そして満州国建国当時の生活スタイルまで、ちょっと驚くような裏話を取り上げてみましょう。タイトルは少々刺激的だけど、大ウソ…ではないんだよ!

→次回
【満州で優雅なリビング…ってマジ!?】に続く
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