壬生義士伝異聞

第17回
満洲で優雅なリビング…ってマジ!?

さて今回も引き続き、最新刊「大野千秋編」の語り部である、大野千秋その人が医師として活躍している(大正4年=1915年現在ですが)舞台である「満洲」について少々お話をしましょう。
この「壬生義士伝異聞」は歴史の教科書じゃないから、当時の中国大陸で巻き起こった事件だの何だの、細かいアレコレは省略しますが、そもそも明治初期に故郷の盛岡を離れて東京で医師の修行をしたのち、明治27年(1894年)に軍医として大陸へ渡ったのはなぜかといえば、この年に勃発した日清戦争がきっかけなのです。ではそのあとなぜ彼が「満洲の地」奉天で医院を開業することになったのでしょう?

大野千秋自身は南部魂で「朝敵だろうと賊軍だろうと構わず」義のために民草を救おうと志を立てて中国大陸へ渡ったわけですが、彼の志とはかかわりなく、歴史の方はその翌年(明治28年=1895年)に日清戦争が終結した後も、北清事変(世にいう「義和団事件」)で清朝は米欧日連合軍に宣戦布告、鎮圧後にロシアは奉天を占領。さらに明治37年(1904年)日露戦争勃発…と、満洲の地は日露の争奪戦の舞台になるわけです。

満洲(東三省)ってどこの国?

結局『壬生義士伝』大野千秋編で、記者に向けて手紙をしたためていた頃の…つまり大正4年(1915年)当時の満洲は、日露戦争の勝利で日本がロシアの権益を引き継いだ形となってました。なので「なんで日本人が(戦争が終結した後も)奉天に残っていられたの?」といえば、要はこの直前(明治45年=1912年)清朝は滅亡、中華民国が成立したものの国内は分裂して統一政府は形ばかりで、臨時大統領(この時点では孫文から袁世凱へ)と権力争奪戦で、奉天を中心とした満洲(東三省=清朝では奉天省・吉林省・黒竜江省)は、軍閥というか馬賊たちが群雄割拠する土地だったワケです。

本編カット

なので、日本も権益を守るために(一応、北洋軍閥を日本陸軍が援助する形で)バックについてました。まあその権威でもって、大野千秋も現地奉天で日本人居留者として、医業を営んでいられたわけですね。

ついでにいえばこの時点で(正確には大正3年=1914年)すでに第一次世界大戦がヨーロッパで勃発していました。日本は第一次世界大戦では連合国側についてたから、ドイツの居留地青島(チンタオ)を攻略し、ドイツ側の物資(鹵獲品ですが)が手に入ったわけです。おかげで奉天の大野医院にも貴重な医薬品が回ってきて、かなり助かったと思われます。
ちなみにこの時点ではまだこの地・奉天を含めた東三省は(形ばかりだけど)「中華民国」の領土です。「満洲国(満洲帝国)」が建国されるのは昭和7年(1932年)つまり大野千秋が手紙をしたためた時期より17年も後になります。

満鉄って、本当に「鉄道」の会社?

この「大野千秋編」中にも、大正初期の満洲・奉天市街の様子が描かれていますが、そもそも奉天市(現在の中華人民共和国・瀋陽市)は東三省の中心都市であり、清朝を建設した満洲人(女真人)の本拠地でもありました。
少し後のことになりますが、満洲国建国と時を同じくしてここには関東軍の奉天市政府が置かれ、近代建築の粋を極めた華麗な市街地が誕生します。
…ところでこの「関東軍」というのは大日本帝国陸軍の一総軍を指す名称ですが(たまに誤解する方もいるので一応、書いておきますけど)別に東京や首都圏を中心とした関東地方とは何の関係もありません。ここでいう「関所の東」の「関」とは万里の長城の東の端「山海関」のことです。つまり山海関(漢民族世界の境界)よりさらに東は満洲人の世界…という意味になります。

本編カット

さて日露戦争でロシアから権益を引き継ぎ、この満洲の開発を担ったのが「南満洲鉄道」俗にいう「満鉄」です。常識で考えたら、なぜ鉄道会社が満洲開発を…と不思議に思えるけど、まずこの地は(権益は引き継いでも)日本の領土ではない、戦時中でなくなれば「日本軍」が常駐して戦時統治するワケにもいかない。となると、ロシアから引き継いだ南満洲鉄道を経営する鉄道会社がその任務に当たるのが一番適当だったワケです。まあ、かつて大航海時代に大英帝国ほか欧州各国がアジアに設立した「東インド会社」…つまりは国策会社と同じようなモノですね。

なので、この「満鉄」の事業もまた、鉄道経営だけでなく手広く多岐にわたります。
細かく解説していたらキリがないのですが、それこそ当時、世界に誇る超高速鉄道事業(特急「あじあ号」)から鉱山経営や製鉄所、電力会社といったインフラ事業からホテル経営(豪華絢爛たる各都市に建設された「ヤマトホテル」)、はては教育やら一般行政代行まで…それこそありとあらゆる事業に手を染めた巨大企業の集合体「満鉄王国」が出来上がるワケです。…中には「満鉄調査部」という(現代日本にも存在していない)巨大シンクタンク&CIA並みの情報機関まで存在してました。

この「満鉄によるインフラ整備」が(大野千秋編より少々後の時代になりますが)奉天や大連といった、満洲都市部の生活レベルを、当時の日本内地に比べてもケタ違いに高いものに押し上げていたのも一面の真実です。
事実、満洲国建国(昭和7年=1932年)前後には、満洲各都市では上下水道や都市ガス完備、ペチカによる集中暖房、建築物はレンガ石造りが当たり前…。すきま風が入る木造住宅で火鉢を抱いて暖を取っていた、当時の内地との生活レベルの差たるやすさまじいモノだったようです(まあ、冬場は氷点下20度を超す満洲の地に日本の火鉢を持ち込んだら、たぶん一冬越せずに凍死する! のも道理ですが )。
「楽しいペチカ」という童謡(北原白秋の作詞です)がありますが、ああいった異国情緒あふれる光景は、実は当時の満洲をイメージしたものだったのですね。

大野千秋が南部の魂を芯に秘めて渡った大陸・満洲の地が、その後どのようにして結末を迎え、瓦解したのか…は、みなさんご存じのとおりです。
実際に満洲国が、どんな裏を抱えて成立していたのかを考えたら、優雅な満洲リビング…などと呑気なことなど言えたモノではないのだけれど、それでも「理想郷としての満洲」を夢見て、自らの人生を捧げた人がいたことも、また事実だったと思います。

さて次回は、大野千秋が医業に身を捧げていた満洲の地を縦横無尽に駆け回っていた「馬賊」について触れてみましょう。なんか「荒くれ者の無頼集団」といったイメージが付きまとった連中だったけど、その実態は…? といったお話です。

→次回
【馬賊って、けっこういいヤツらだぜ!?】に続く
イラストカット
2021.11
『壬生義士伝』執筆状況

「続・居酒屋「角屋」の親父編」
鋭意執筆中

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