壬生義士伝異聞

第19回
明治維新「勝ち組」VS「負け組」

大野千秋が故郷の盛岡を離れて上京した明治初期は、文字通り「封建秩序がゴチャゴチャにひっくり返った時代」でした。1868年(慶応4年=明治元年)に勃発した戊辰戦争で幕府軍は薩長や土佐の連合軍(官軍)と鳥羽伏見で激突、翌年には明治維新で新政府誕生…。この後に廃刀令だの四民平等だのと太政官布告が次々に発布され、武士の世の中がブチ壊され瓦解したことは、いちいち解説するまでもないでしょう。

南部藩(盛岡藩)はこの戊辰戦争の折に奥羽越列藩同盟を組み幕府側に付いて戦い「賊軍」として維新後にさんざん辛酸を嘗めさせられた詳細は本編…ことに大野千秋編でも詳しく描かれています。
まあ明治維新の「勝ち組VS負け組」というと、勝ち組は当然ながら官軍側の「薩長土肥」つまり「薩摩・長州・土佐・肥前(現在の佐賀)」あたり。負け組は幕府側、奥羽越列藩同盟の東北諸藩、というのが一般的な解釈ですね。
維新後の新政府からの締め付けは「白河以北一山百文」…つまり現在の福島県白河市にあった関所から北(つまり東北全体)の荒れ地なんざ一山まとめて百文の価値しかねぇ! なんて侮蔑の言葉が堂々と新政府から発せられたくらいだから、「負け組」へのすさまじい冷遇は推して知るべし。
ちなみに江戸時代後期の貨幣価値で換算すると、百文はおおよそ現在の二千円程度…だいたい米一升買えたかどうか、といったところですね。もちろんこれで本当に当時、東北諸藩の山が丸々ひとつ買えたワケではありません。

負け組の武家、勝ち組の商人?

『壬生義士伝』大野千秋編では、南部を出奔して新都・東京へ出た千秋は父次郎右衛門の重臣時代のツテを頼って元札差(武家俸給の換金業者)だった廻船問屋を訪ねたところ、それこそムチャクチャに屈辱的な扱いを受け、席を蹴って飛び出すシーンが描かれていました。
廻船問屋といえば、現代でいえば運送業者(正確には少し違うけど)。明治以前の運送といえば圧倒的に海運(廻船=船舶による輸送)が主体でした。鉄道が敷設されて陸運が主流になるのは明治後期からですから…ちなみに日本の鉄道開業は1972年(明治5年)の汐留(新橋)・桜木町間です。
さすがに時代が昭和に入る頃には「廻船問屋」自体も、海外貿易に活路を見出した大手の海運業者以外はほとんど消滅してしまうのですが、この時代はまだ新政府とコネがあった元札差などは「勝ち組」として旨い汁を吸えたのでしょうね。

本編カット

実は幕末から明治維新にかけて…どころか江戸時代中期あたりから経済的には札差の商人からの借財(いわゆる「御用金」ですね)で首が廻らなくなった貧乏藩なんかゴロゴロしてたし、中には本当に「いっそのこと幕府に所領返上しようか」と思い悩んだ藩もいくつか出現したとか。もっとも結果的には明治2年(1869年)の版籍奉還で、全国262藩(最終的には274藩)が一斉に、すべて返上されてしまいましたが…。
余談ながら江戸時代というと、一般に士農工商という身分制度(差別)ピラミッドがガンガラ締めに確立されていたと思いがちですが、少なくとも決して「お侍サマ至上主義」で世間が回っていたワケではありません。
そもそも「士農工商」なんて熟語自体が中国からの借り物ですから(なので本来は「士」というのも「武士」の士ではなく「士大夫」の士、つまり中国歴代王朝でいう科挙で選ばれた文人官僚などを意味してるのです)。ちなみに江戸時代には、実際にそんな四文字熟語は一般的に使われていなかった…という説が近年では有力ですね。

本編カット
役人の勝ち負けと士族の「勝ち負け」は全然別!

よく考えてみると…新政府に登用された薩長閥のお偉いサマ方は別にして…残りの武士たちの大多数が「負け組」と分類したほうが手っ取り早いかもしれません。明治新政府が次々に発布した太政官通達の中でも明治2年(1869年)の「戸籍法改正」で武士の身分は「士族」と改められ …呼び名が替わっただけならいいけど、版籍奉還とともにすべての藩は潰れ、戊辰戦争の勝ち組負け組を問わず、武士の俸給も特権も全部が全部! 廃止されてしまったのですから。
もっとも(当然ながら)、版籍奉還と同時に武士たちは裸一貫で放り出されたわけではありません。明治9年(1876年)に明治政府から出された「秩禄処分」で、士族と呼ばれるようになった武士たちが、これまで藩から受けていた俸禄に応じて期限付きではあるけれど公債の形で受け取れるようにしたわけです。
ただ支払われる利子は微々たるものだったから生活の足しにはほとんどならず、ならば…と意を決して公債を売り払い、手にした元金で商売を始めた挙句、さまざまな珍妙エピソードが生まれるワケです。
俗にいう「武家の商法」悲喜劇の数々ですね。

一番手っ取り早かったのは、代々伝わる家宝を売り払って始めた古道具屋。それに食べ物屋…「鰻屋」なんか近代落語のネタにもされているし、なぜか知らないけど汁粉屋とか団子屋も多かったという記録が残っています。
ただ、そもそも人様に頭を下げる客商売がお武家サマに馴染むはずもないから、大抵は失敗に終わるわけですが、中には成功例もそれなりにあります。たとえば現在も残る木村屋なんかは元幕臣が始めたパン屋なのですが、最初はまるで流行らず、それでは…と発想を転換してスイーツ商売に変身。パンの中に餡子を入れて売り出したら、この新商品「アンパン」が大ヒット! という話は有名です。
逆に悲惨な例としては、公債を現金に換え、それを元手に貸金業を始めた某士族の奥方様が「飛ぶように皆様が借りてくださるわ」と最初は喜んでいたけど結局、一銭も手元に戻ってこなかった…なんて笑えないお話もあります。

結局「ご一新」で数々の特権は消滅。廃刀令で刀まで取り上げられたうえに経済的には困窮…というダブル(トリプル以上かも?)ショックが重なった結果が、士族の反乱という西郷さんを首謀者に担いで明治10年(1877年)に勃発した「西南戦争」へとつながります。まあ、秩禄処分や廃刀令が出された時点で日本国中が大騒乱にならなかっただけでも奇跡だったのですが…。ただその一方では近代日本に適応して今でいうベンチャー企業で成功した士族もいれば、薩長土肥の明治新政府と結託して大成長を遂げた政商(たとえば三菱財閥の岩崎弥太郎とか)も出現するワケです。

ここ最近では(大河ドラマのお陰もあって)渋沢栄一の名前が有名になっています。激動の幕末を生き抜き、のちに500を超える会社設立に尽力して「日本資本主義の父」と呼ばれるほどの偉人なのだけど、そもそも彼の出自は北関東の豪農(藍染生産農家)です。それが幕末の動乱で勤王の志士となり、一橋家の家臣となり…明治新政府の官僚、そして実業家へと転身します。
冒頭で「江戸時代の身分制度はガチガチに固まっているワケではなかった」とお話ししましたが、渋沢栄一なんかはその典型例ですね。それによく考えてみれば『壬生義士伝』に登場する新選組の面々…近藤勇にしても土方歳三にしても、出自はもともと武蔵国の豪農なのですから。

今回、維新ののちに南部を出奔した大野千秋の話から、明治の負け組(?)「士族」の苦闘を中心に扱いましたが、同時代の「庶民」たちだって、このシャッフルされた新秩序の中で逞しく変身していった(せざるをえなかった)ことに変わりはない…そういう意味では、勝ち組VS負け組なんて、単純に割り切ることそれ自体に意味がないのかもしれません。

さて次回は大野千秋の結婚話…。というか、本編でも描かれていた、千秋と妻みつが祝言を上げた時代の、つまり古き良き江戸と新生明治の風習がごちゃ混ぜになっていた頃の、案外と現代では忘れられてしまった面白エピソードをいくつかお話ししましょう。

→次回
【新生明治は何でもアリ!】に続く
イラストカット
2022.04
『壬生義士伝』執筆状況

「居酒屋『角屋』の親父2」
執筆完了 現在鋭意編集作業中

配信開始は 6月3日(金曜日)より!

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