壬生義士伝異聞

第20回
新生明治は何でもアリ!

古い江戸時代が「ご一新」で身分制度から社会秩序&風俗モロモロに至るまで、あっという間に大変革してしまった(されてしまった?)幕末明治エピソードの続きです。…ただ本腰入れてネタ起こしを始めると、これが本当にネタの宝庫で! 語り始めたらこれだけで本一冊あっても全然足りないほどのボリュームになってしまうんですよね、こりゃ困った。前回の予告タイトルで少々フカシ過ぎたな…。

なので今回はちょっとネタを絞って、第5章「大野千秋編」ラスト、千秋と吉村貫一郎の娘・みつとの祝言を「木遣」唄で華々しく飾ってくれた江戸町火消(鳶衆)たちにまつわる幕末維新前後の、案外知られてないエピソードをご紹介しましょう。
ちなみに「江戸木遣唄(きやりうた)」といえば、現代でも消防署の出初式などでお馴染みの…力士たちが歌う「相撲甚句」などと並ぶ江戸情緒あふれる伝統的民謡ですね。で、そもそもの発端は江戸の町火消し・いろは四十八組が景気付けに唄ったものが様式化したといわれています。さらに元をたどれば「鳶」たちの共同作業で唄われた労働歌が原型にあるらしい。

鳶の労働歌が江戸名物に…?

「鳶」つっても、鳥とは関係ありません(当然か)正しくは「鳶職人」。イマ風にいえば「高所作業をする建築業者」ですか。
町火消「いろは四十八組」が制度化されたのは幕府が江戸に開かれて百年余り、徳川吉宗のもとで大岡越前守が定め、当時すでに存在していた大名火消や定火消をしのぐ大活躍をして、粋でいなせな「町火消全盛時代」を築いたといわれます。で、その火消の要員に「元(あるいは現職)鳶職人」が大多数を占めていたので、必然的に彼らの労働歌「木遣」も消防のシンボルソングとなった、と…。
江戸というのはとにかく「火事と喧嘩」が華ってほど火事が多い都市で…こちらの面白火事話も数多いけど不謹慎だから(?)省略…。当時の消火ってのは火元の家屋へ飛び込んで行って、近隣に延焼しないように風下の家屋を速やかにブチ壊す破壊消火が主流でしたから、鳶職の方々が最適任だったのです。

本編カット

余談ながらこの町火消は、基本的にお上からの下賜金で運営されていたワケではなく、あくまで受け持ちの地域で費用を負担していました(たとえば「い組」なら担当は本町、室町ほか17町で所属する火消人足はおよそ500人)。してみると現代にたとえれば消防署というより、地元の消防団が「いろは四十八組」直系の末裔というべきでしょうね。現代の消防団員も、別に職業を持った地元の人たちで組織され、緊急時に出動する特別地方公務員ですから(なので、些額だけど「給料」も支給されます)。
ちなみにけっこう有名な話ですけど、この四十八組に「へ、ら、ひ、ん」の4組は存在しません。理由は簡単です。「屁組」は下品、「ら」組は…隠語で男性のアレに通じるからダメ、「火」組は縁起が悪い、「ん」組は…「ンこ」を想像するので…やっぱNG! たとえば火事場に駆けつけた「ま組」と「ら組」の纏がカチ合ったら見た目がアレで困るだろ。なんて、江戸っ子も相当に気を使うというか、縁起を担いだのですね。

さて、この「いろは四十八組」は明治のご一新で新政府により改組され、明治5年に「消防組」と改められますが、伝統はそのまま引き継がれました。本編「大野千秋編」でも結婚式の花嫁道中を「木遣」行列で彩ってくれたワケですね。ここから先は勝手な推測なのですが、おそらく大野千秋の師匠である鈴木文弥先生は地元下町の大功労者でもあったから、当地の消防組の顔役に話をつけ(おそらくは幾らかの心付けを渡して)隅田川畔向島の川宿への花嫁道中を粋に仕切ってくれたのでしょう。

本編カット
いろは組の「侠客」、将軍を警護する!?

ここで話を幕末に戻しますが、第15代将軍・徳川慶喜がまだ将軍後見職だった元治元年(1864年)、禁裏御守衛総督に就任した折に京への上洛の護衛として、二百余名もの兵…ではなく火消人足の「子分」を従えて上洛を果たしたのが、ほかならぬ「いろは四十八組」の「を組」であった、という仰天エピソードがあります(ちなみに彼らはそのまま京にとどまり、慶喜の活動拠点である二条城の警護に当たりました)。東海道を京へ上る道中、警護の行列が火事場装束に身を包み、纏(まとい)を振って街道を練り歩いたかどうかは不明です(ンなはずないか)。
棟梁の名は新門辰五郎。大河ドラマでは…渋沢栄一が主人公の某シリーズには登場しませんが…以前、徳川慶喜を主人公に据えた作品中では、けっこう重要な役を担い、立派な「侠客」として描かれていました。

この新門辰五郎という人物、元々は江戸下谷で煙管(きせる)職人の息子でしたが、縁あって町火消「を組」に身を寄せ、最後は二百名あまりの手下を抱える同組の棟梁に上り詰めました。
ともかくハデな経歴の持ち主で、柳川藩の大名火消と火事場でイザコザとなり、怪我人まで出す騒ぎになった挙句に本人は藩邸まで乗り込んで直談判。結局は無罪放免になって一躍、江戸市中で有名人となりました。
火事場でのイザコザが過ぎて一時は江戸処払いになったけど密かに舞い戻り、さらに再逮捕されて石川島送り(要するに牢屋送り)。ところが牢仲間とともに翌年の佃島火災で消火活動に尽力し、南町奉行遠山景元(遠山の金さん)に認められて放免される…などなど、武勇伝にこと欠かない人物だったようです。

彼が徳川御三卿一橋家と知り合ったのは「を組」の受け持ち区域が浅草から下谷界隈で、上野大慈院別当の覚王院義観が浅草寺界隈の取締を辰五郎に依頼した縁あって、回りまわって慶喜に紹介されたらしいのですが、よほど二人の縁は深かったのでしょう。実は辰五郎の娘「お芳(よし)」はなんと、慶喜に(妾として、ではあるけど)嫁いでいるのです。慶喜が禁裏御守衛総督に任じられた折に「を組」火消衆が江戸から京都への警護を引き受けたのも、この娘・お芳と慶喜の縁があったといわれています。
ちなみに戊辰戦争で将軍・慶喜が大坂城を脱出して(戦線離脱して)海路ひそかに江戸へ戻ってしまった際にも彼女は同行した、との記録もあります。本当かどうかわからないけど…。

侠客=決して「反社」じゃない!

それにしても、れっきとした徳川家御三卿の一角を占めた一橋家の上洛道中警護を、火消衆の侠客が勤めたというのは驚きです。
ひょっとするとこれには「御三卿」という立ち位置も関係しているかもしれません。そもそも御三卿(田安・一橋・清水)は御三家(尾張・紀州・水戸)と違って厳密には大名家ではなく、あくまで徳川宗家の「身内」であって、譜代の家臣はいませんでした。家臣は基本的に徳川宗家からの出向だったから、いざとなると使える兵=手駒もいない。しかも頼みの綱である幕末の「旗本八万騎」は弛み切ってほぼ無力。となると、市井の侠客のほうがよほど頼もしかったワケですね。
幕末に「草莽の志士」が崛起したのも、京の治安部隊・新選組が浪人衆で組織されたのも同じ理由です。そういえば昨今、話題の人物である渋沢栄一が「武蔵国の藍染農家の息子」から奇しき縁で一橋家に仕官したのも、似たような事情でしたね。

ところで「火消の棟梁」である新門辰五郎のことを「侠客」と表現しましたが、この言葉は本来「強きをくじき、弱きを助ける任侠の道に殉じる渡世人」といった意味です。
実際、辰五郎は大政奉還ののち、新政府軍によって上野寛永寺に謹慎させられた徳川慶喜に最後まで付き従って警護し、そののち明治に時代が移ると慶喜とともに駿河へ下向し余生を過ごしました。また当地では、かの有名な侠客・清水次郎長親分とも親交があったそうです。
「侠客」を現代語で表すと「ヤクザ」になってしまいますが…少なくとも江戸から明治にかけたこの時代、百姓と武士の境界があいまいだったように、任侠道を歩んだ人々と、志士との境界線もあいまいだったと考えるべきかもしれません。ちなみに彼らは、俗にいう「博徒=バクチ打ち」とは生きざまが全く違う! と自負していましたから。間違っても彼らを現代の暴力団・反社会勢力と同じように考えたらそれこそ草葉の陰から怒り狂い、化けて出てくるかもしれませんよ。

と、いうわけで『壬生義士伝異聞』はここで筆を置きましょう。
いよいよこの7月からは、新章「中間・佐助編」配信を開始します。
期待してお待ちください!

戻る TOP