壬生義士伝異聞

『壬生義士伝』も第六章「中間・佐助編」が完結。吉村貫一郎の壮絶なる最期と、大野次郎右衛門との絆にまつわる謎が解かれて、いよいよ次章で物語も佳境…息子・嘉一郎の最期の華舞台へと移るのですが、このまま次章へすぐ突入できない事情があるのです。
以前もコラム「ながやす流漫画術」でお話ししましたが、『壬生義士伝』迫真の画稿の数々はアシスタントを使わない、ながやす先生独自の漫画術で執筆されるため、いささか時間を頂く必要があります。現在の執筆状況や再開予定は今後も本サイトで順次お伝えしますが、ちょっとこの幕間を利用して『壬生義士伝』の世界にまつわる、少し変わった史実伝聞、不思議なエピソード(!?)などなど、お伝えするこのコーナーにもお付き合いくださいませ。
チェックすれば『壬生義士伝』本編は一気に10倍面白くなる! か、どうかは保証できませんけど…。

第22回
ヤマセノ南部ハ オロオロアルキ

『壬生義士伝』は、主人公の元南部藩士にして、脱藩の後に幕末の新選組に身を投じた(しかも剣技たるや新選組随一の名に相応しい腕前であった!!)吉村貫一郎と、その子息の生涯を、彼らにかかわった人たちの口を通して描いた作品です…なんて改めて語るのもおかしな話なのですが、さてここで一つ問題です。
はたして吉村貫一郎は何に殉じ、あるいは何者にその生涯を捧げたのでしょうか?
実は簡単なようで、意外と難しいのですよ。この質問って…。

本編カット

「二駄二人扶持」という軽輩ながら、北辰一刀流の免許皆伝にして文武両道に秀でた類稀な才を買われ、藩校の教授方を務めていた朴訥で質実剛健で、そして藩士子弟たちに高い志を説いた心豊かな南部時代の人物像。脱藩後は打って変わって…生来の朴訥さは変わらないものの…ひとたび剣を手にすると豹変する気迫と、戊辰戦争の戦場で放った「錦旗にも怯むことなく」単身で官軍に立ち向かう、本物の義士の志を持つ武士の顔。

かと思うと新選組隊士時代に垣間見せた「金銭が絡むと」突然に卑しくなる俗っぽい一面。こう見てゆくと吉村貫一郎の中には、まるで幾人ものパーソナリティが同居していたかのようにも思えてしまうのですが、実はここには「吉村貫一郎」というキャラクターに込められたもう一つの『壬生義士伝』の重要なモチーフが隠されている(…ような気がします)。
それは美しい郷里と共に「ヤマセ」との共生を余儀なくされた南部人の宿命です。

イーハトーブは吉村貫一郎の「魂の故郷」だったのか

ちょっとだけ、ここでネタを『壬生義士伝』から脱線させてしまいますが…。
今回の表題「ヤマセノ南部ハ オロオロアルキ」は(ま、すぐにピンとくる方も多いとは思うけど)宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩からのパクリです。国語とか道徳とか、いろんな教科で引用されてるからこの詩、ご存じの方も多いでしょう。
原詩は少々長いので、使ったところだけ抜粋すると
「ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ
 サムサノナツハ オロオロアルキ」
という、ココですね。ちなみに「ヒドリ」は「日照り」のことと考えてください。そして「サムサノ夏」こそ、東北特有の冷夏で凶作を招く「やませ」という異常気象なのですね。この詩のこの部分、解釈はいろいろできるけど要は「雨にも風にも負けない」丈夫な体を持ちたいと願う宮沢賢治にしてからが、「日照り」と「寒さの夏」には、どうにも(あの当時にすれば)手が打てなくて、涙流したりおろおろ歩くしかなかったのでしょうか。
(もっとも歴史的に考察すれば、彼の生きていた大正時代にとてつもない大飢饉が東北地方に襲来した、という記録は残っていないのですが…)

当然ながら宮沢賢治もまた南部人の血をひいていますし(経歴は詳しく書きませんが)実は彼自身、花巻農学校の教員を務めています。また、作品に出てくる有名な理想郷イーハトーブが、彼の描いた故郷・岩手のカリカチュアであることは改めて指摘するまでもないでしょう。

ちなみに宮沢賢治は童話に託して、この南部の里(イーハトーブ)から「冷夏と、その原因である『やませ』」を根底から消し去ってしまうための(科学的)処方箋を考案しています。それが童話『グスコーブドリの伝記』中で示されているのですが…まあ、現代人が読み返すと、アワを吹くようなアイデアです。なんと火山噴火による温室効果ガスを利用して、この寒冷なイーハトーブの気候を一気に温めようとする大胆な企てなのですから!

温室効果ガスをゼロに削減しろ! と世界中が喧々諤々の大論争を繰り広げている現代とはあまりにも異なる、というより全く真逆の発想です。
けど、それは果たして単なる当時の「無知で愚かな考え」だったのでしょうか?
大正時代の間違った科学知識がそんな的外れの物語を描かせた…と笑うのは簡単なのですが、それなら現代の夢物語でも、遠い将来の惑星移住テラフォーミングのために、たとえば火星に大量の温室効果ガスを送り込んで温め、凍った水を溶かして活性化する…といった方法論は大真面目に議論されているんですよ(笑)。

大飢饉の落し物は「一揆の嵐」

この東北特有の「夏に襲来する寒冷気候=やませ」による冷害凶作については、ここで詳しく解説しません。実は第三章『桜庭弥之助編』の第8話(第4巻p056〜p078)で、ほかならぬ桜庭弥之助自身が、この「やませ」によって南部(盛岡=岩手)を含む東北一帯が襲われた大凶作の実態を語っていますので、そちらを参考になさってください。

江戸時代の「南部四大飢饉」といって元禄・宝暦・天明・天保の飢饉があるそうですが、ことに「やませ」が主原因で、しかも天保4年〜天保10年(1833-1839年)まで、なんと7年間にわたって冷夏による凶作が続いて、南部(盛岡)藩でも凄惨な餓死者が出たといった詳細な描写は、ここでくどくど書くより実際に、ながやす先生の筆になる本編を読んでいただく方がよいでしょう。
そして、この天保の大飢饉の時代に生まれ、生き抜き、そして幕末に活躍の場を迎えた世代が、ほかならぬ吉村貫一郎や大野次郎右衛門たちであったことも、本編で指摘されているその通りの事実で、この大飢饉よりわずか10数年後のことなのです。

本編カット 本編カット

実際、南部は江戸期には全国一の「一揆多発藩」であったともいわれます。これだけ飢饉が多発して、餓死者まで続出すれば当然だろう…という気もするのですが、ともかく江戸期を通じて一揆の件数は南部藩政を通じて計140件余り! この天保の大飢饉後の弘化4年(1847年)に勃発した一揆では周辺村落まで一揆勢は併せて1万2千人余りにまで膨れ上がったといわれています。

南部藩困窮…原因は自然災害だけ?

まあ、これだけ何度も大凶作と飢饉に襲われれば、一揆が多発するのも当たり前だし、そうなると必然的に藩政はひっ迫、大貧乏で財政は破綻寸前も当たり前だろ!
…と考えるのも納得がいくのだけれど…実は南部(盛岡)藩が財政ひっ迫していたのには、実はほかにも理由があったようです。

そもそも東北は、昔から貧しかったイメージが常識みたいに付きまとってますが、案外、それは江戸時代以降に固まったようなのです。たとえば鎌倉時代あたりだと、奥州藤原氏が支配していた東北一帯は(源義経が兄頼朝に追われて亡命したくらいで)黄金がドカドカ採れる「エル・ドラド」みたいなイメージだったんですよ。
それが江戸期に入ると「コメ経済本位システム」が定着し、それに伴って東北=米作農家の収量が少ない! しかもあそこは凶作続きの土地だ…という具合にイメージが定着してしまったのが元凶のようです。

それに実はこの南部(盛岡)藩、幕末には知行二十万石という大藩だったのですよ。
…とはいうものの…格好はいいけど、高い家格のせいで出費も多かったのです。
前回にも書いたけど、幕末動乱期にロシアだのアメリカだのが日本近海に出没しはじめると、南部は幕府からは「オマエのとこは大藩なんだから面倒を見ろ」と、北海道(蝦夷地)防衛を幕府から押しつけられ、出兵させられて財政圧迫…そこへ「天保の大飢饉」が襲ってきて餓死者続出! というのが吉村貫一郎が登場する直前の南部だったわけです。

加えて、こと「天保の大飢饉」の大災害に関する限り、原因はあながち盛岡という土地がもたらした「やませ」による天災ばかりでもなさそうです。というのは財政補填のために、その「やませによる大不作」の最中にも、藩は米価の高い江戸へ向けて買米制度で米を強制的に移送してたらしい。
だから、いざ飢饉に見舞われた際に、放出するはずだった救済用の備蓄米まで空っぽだった! 要するに藩の財テク失敗のツケが回った結果が大飢饉だった、という側面もあったようです。

そもそも、南部(盛岡)藩の「知行二十万石の大藩」という体面も、実は隣の仙台藩・伊達家に対する藩主(南部氏)のライバル意識が生んだ産物でもありました。
つまり文化5年(1808年)に、土地の収量が増えたわけでもない(加増されたワケでもない)のに十万石から二十万石へ石高を過大申告(高直り)してしまったモノだから、その分、余計な賦役を幕府から押し付けられた…と言えなくもないのです。

再び「イーハトーブ」への道…

そもそも『壬生義士伝』で、なぜ吉村貫一郎が脱藩・出奔して新選組に身を投じたのかといえば、何より南部(盛岡)藩が「貧乏だったから!」。だから吉村のような北辰一刀流の免許皆伝で、しかも藩校で教授まで勤めたという逸材に、「二駄二人扶持の小者」という足軽並みの待遇しか与えられなかった。妻子にひもじい思いを強いる生活から脱するには、脱藩の道しか残されていなかった。朴訥で故郷の盛岡を…南部をこよなく愛していた高潔な武士が、新選組に身を投じたのち、なぜか銭勘定にだけはやたらと執着していた根本理由もそこにありました。

そしてその源をたどると、そもそもこの南部という土地が、たびたび「やませ」という不順な夏の凶作を招く気候に祟られていたこと。何度も飢饉に襲われていたという歴史的事実にぶつかってしまいます。
ところが…実はその裏に南部(盛岡)藩の財政的な失敗(コメの強制移送)やら、藩政の不手際(特に幕府から押し付けられた過大な賦役)といった、人災的な側面も隠されていたことが分かってきました。実際問題、先に上げた天保の大飢饉後に勃発した弘化4年の大一揆の発端だって「ひもじいぞ米よこせ暴動」なんて救済欲求運動じゃなく、幕府による重なる軍役と徴収金加増に対する大反対運動…藩政改革要求だったのですから。

本編カット

最後にちょっと考えてみてください。
江戸期に南部は「四大飢饉」という「やませ=冷害」をはじめとする大災害にたびたび見舞われてきました。では明治以降この自然災害は奇跡的に、なぜだかぴたりと収まったのでしょうか? もちろん、そんな都合のいい話があるワケないですね。
実際、現代でも冷害を原因とした大凶作が平成5年(1993年)に起こっています。このときの「コメ騒動」も深刻でしたが、要するに緊急輸入したタイ米が不正処分されたり、抱き合わせで闇米として販売されたり…といった社会問題が勃発した程度で、幸いにしてわが国では(もちろん当然ながら南部でも)ただ一人の餓死者も出ませんでした。

もちろん、なんとなく時代が下ったら、飢饉も飢餓も勝手に消えてなくなるはずはないから、誰か先人が南部を盛岡を、そして我が国をこのように作り変えていったワケです。実はそれこそ、大坂蔵屋敷で切腹を遂げ「侍の時代」の終焉を望んだ、吉村貫一郎が考えていたことでもありました。まだ、ながやす先生の筆が入っていない先のお話をするワケにはいかないのですけど、こんな「もう一つのテーマ」を語るために『壬生義士伝』には、この先にもう一人の「吉村貫一郎」が登場することとなります。ご期待ください。

さて次回は、南部(盛岡)藩が(そしてもちろん他藩も)一斉消滅した…その割には日本全国が大動乱&大混乱の坩堝に陥らず、なんとなく収まったという…南部と全国廃藩置県の裏事情について、ちょっと探ってみましょう。

→次回
【騙されて? 廃藩置県一挙成立】に続く
イラストカット
2022.01
『壬生義士伝』執筆状況

「続・居酒屋「角屋」の親父編」
鋭意執筆中

戻る TOP