壬生義士伝異聞

『壬生義士伝』も第六章「中間・佐助編」が完結。吉村貫一郎の壮絶なる最期と、大野次郎右衛門との絆にまつわる謎が解かれて、いよいよ次章で物語も佳境…息子・嘉一郎の最期の華舞台へと移るのですが、このまま次章へすぐ突入できない事情があるのです。
以前もコラム「ながやす流漫画術」でお話ししましたが、『壬生義士伝』迫真の画稿の数々はアシスタントを使わない、ながやす先生独自の漫画術で執筆されるため、いささか時間を頂く必要があります。現在の執筆状況や再開予定は今後も本サイトで順次お伝えしますが、ちょっとこの幕間を利用して『壬生義士伝』の世界にまつわる、少し変わった史実伝聞、不思議なエピソード(!?)などなど、お伝えするこのコーナーにもお付き合いくださいませ。
チェックすれば『壬生義士伝』本編は一気に10倍面白くなる! か、どうかは保証できませんけど…。

第23回
騙されて? 廃藩置県一挙成立

『壬生義士伝』のバックグラウンドにある幕末史を辿っていくと、特に気になるのは「武家を中心とした価値観」というか思想が僅かな期間に、節目節目でコロコロと見事なまでにひっくり返っている点ですね。そのたびに武士も庶民もことごとく、右へ左へと振り回されて大混乱に陥り…けど結果的には「ヨーロッパでは百年単位の大動乱の末、何とか固まる」レベルの社会的大変革を、日本は1年にしてケリつけた(と、驚いたのは当時のイギリス公使パークス…だったと思うけど)という、劇的というか非常に効率的な結末をたどったワケです。 ま、1年にして…は多少盛りすぎだけど、ペリーの黒船来航を1853年とすると、わずか15年後には国内の幕藩体制を、明治維新で天皇中心の中央集権体制に切り替えたのだから(しかも僅か1年足らずの内乱で)、たしかに世界史的にも珍しいことではあったのでしょうね。

もちろん、これがシステマティックに効率よく進行したワケではありません。むしろ、きわめて短いタームで価値観がひっくり返ったお陰で、もう「何が何だか分からないうち、勝手に社会変革が進んでしまって、最後はワケが分からないうちに勝ち組VS負け組の間でケリついちゃった」というのが正しいところではないでしょうか。 昨日まで勤王の志士たちが「尊王攘夷!」とか叫んで居留地の夷人どもを切り殺そうとしてたのに、数年後にはコロッと寝返ってお雇い外国人として召し抱えたり、あるいは幕末雄藩同士の敵味方関係なんか、昨日まで不倶戴天の敵同士がいきなり同盟を結んだり(薩長同盟とか)、帝の藩屛と絶大な信頼を受けていた者がある日突然逆賊にされたり(会津藩主松平容保とか)例をあげたらキリがありません。

気が付いたら大名所領一斉消滅?

さてそこで今回のお題「廃藩置県」です。『壬生義士伝』第二章の「桜庭弥之助編」では、語り部の桜庭自身の口から廃藩置県前後に南部が辿った運命が語られています。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加担し、維新後には国替え(転封)で南部(盛岡)藩二十五万石は、白石藩十三万石(つまり所領は半減)へ移封されますが、実際には領民の熱心な復帰請願運動(それに、70万両ともいわれる巨額の賠償)もあって、結局藩主ともども、南部に戻ることを許されます…のだけど、桜庭の言によればその直後の明治3年(1870年)7月、明治新政府の「廃藩置県」により結局、南部は藩ごと消え失せるわけです。もちろん、消えたのは全国三百諸侯(正確にはこの時点で二百七十四大名)全部だから、何も南部だけがワリを食ったわけではありませんが。

普通だったら、こりゃ「明治ご一新だし、帝の御下命だからしょうがねえよなぁ」なんて気楽な言葉で片づけられる問題ではありませんね。江戸幕府開闢以来およそ250余年にわたって大名たちが封じてきた領地を日本全国、一斉に中央政府へ召し上げられたのだから!
日本史全体を紐解いたって、こういうラディカルな政体激震の場合、大戦がおっ始まるのが常ですね。たとえば貴族政治が武家社会に切り替わったとき勃発した源平の争乱、あるいは朝廷対幕府による主導権争い(後鳥羽上皇の仕掛けた「承久の変」とか後醍醐天皇による「建武の中興」なんて争乱)とか。中には幕府内の主導権争いで始めた戦の原因がそのうちグダグダになり、結局何をどうすりゃ片付くか分からなくなったまま戦国群雄割拠に突入、なんて応仁の乱なんかもありました。

ここで間違ってはいけないと思うのだけど、幕末の「戊辰戦争」はあくまで幕府が政権を「大政奉還」で朝廷に返上し、元将軍(徳川慶喜)は江戸へ戻って蟄居謹慎までしたのに、それでも薩長土肥は難癖をつけて江戸まで攻め上ってきたのだから…つまりすでに一方は白旗を上げてた状態。一部で(元幕府側=徳川家や会津藩の処理を巡って)小競り合いはあったけど、我が国の主導権をかけた二大勢力激突…本格的な内戦にまでは発展しようがなかったのです。
けど「廃藩置県」となるとモノが違う。今度は全国津々浦々の大名の所領を、ことごとく召し上げるってんだ。さあ、ここに至ってついに明治維新後最大の内戦ぼっ発……??

準備周到「抜き打ち詐欺」!?

ところが…ご存じの通りこの明治の廃藩置県、結局はごく一部の不平大名(あとで簡単に触れますが)の反抗…というより単なる駄々コネ騒動を除いて、ほとんど不満らしい不満も出ないまま、この明治新政府による中央集権化プロセスは無事に完了します。
明治10年(1877年)西郷隆盛による「西南戦争」があったじゃないか! という意見もあるでしょうけど、あれは西郷を首魁に担いだ不平士族による反乱であって、たとえば旧薩摩藩が藩を挙げて明治政府に反旗を翻したワケではありません。
250年余にもわたる太平の眠りののち、いきなり黒船来襲に大政奉還。そして明治維新…と立て続けに我が国は大動乱に見舞われたおかげで諸大名もここに来て毒気を抜かれ、反抗する気力も失せたのでしょうか?
…ずいぶん乱暴な推論だけど、これが案外正解だったりして…。

本編カット

実際問題、本編にある桜庭弥之助の「貧困、そして自ら願い出ての廃藩置県――すべては中央政府の思惑通りであったのかもしれません」という呟きが物語っているように、南部藩に限らず、幕末から戊辰戦争に至る出費で財政が極端に悪化。こんなに苦しいのならいっそ新政府に願い出て「秩禄返上」しようか、と苦悩していた藩が幕末時点でゴロゴロしてた、というのが一つ。つまり多くの元大名たちにとって廃藩置県は一種の「渡りに船」だったことですね。
それからもう一つは、この「廃藩置県」って、二段構えで元大名たちを上手に騙す仕組みを、新政府のお歴々(主に大久保利通や木戸孝允、大隈重信ら)が画策したこと。つまり「廃藩置県は元大名(新たに「知藩事」と命名されました)の皆さんにとってもおトクな太政官令なんだよ」…と吹き込んだのが功を奏したことにあります。

ところでオレは、いつ将軍になれるんだ?

二段構えというのは徳川が大政奉還した後、明治2年(1869年)1月に新政府が…この場合は薩長土肥の四藩なのですが…「版籍奉還」を上奏(宣言)したことから始まります。これは要するに「大政奉還で幕府は消滅したワケだから(つまり徳川から所領を安堵してもらう根拠もなくなったから)領地は朝廷にお返しします」という宣言ですね。で、元藩主は改めて「知藩事」に任命されるワケです。

この上奏は同年の7月に、全国284の諸侯に適用されます。
トップの名称が変わるだけだし、物事の道理も立ってる。諸藩にすれば「将軍が代替わりするので、知行安堵を朝廷が代行するだけ」だから何も問題はない…と誤解するところも多く、この時点ではほとんど抵抗なく終わります。
けど実は、ここにワナがあったワケです。

この版籍奉還に伴って、「蔵米知行」が各藩に義務付けられました。
何のことかというと、要は藩の財政や(収穫量などの)統計は、すべて中央政府に報告が義務付けられ、知藩事の家禄は藩全体収入の10分の1、と定められたのです。さらに全収入の9パーセントが国軍(陸海軍)の費用として、政府に上納が義務付けられる、そして藩士たちと知藩事の主従関係はこの時点で解消…うんぬん。
お分かりの通り、明治以前まで我が国を支えていた封建諸制度(地方知行)が、ここで一気に解消されて明治政府による「中央集権国家」にシステムが置き換わったんですね。

元藩主(知藩事)は間もなく中央政府から派遣された県令に取って替わられて失職、士族となった元藩士たちは秩禄処分でこの後、かなりの数が不平士族と化していきます。
本編でも、多くの元南部藩士たちがそれぞれに、苦難の道をたどることとなります。のちに実業の道に入った第二章の語り部・桜庭弥之助が南部を出て上京したのが廃藩置県で南部藩が消滅した翌年の冬。医業に後半生を捧げた彼の朋友・大野千秋は、父・大野次郎右衛門が非業の死を遂げた明治2年にはこの地を去っていますね。

本編カット 本編カット

こうなるとあとは、なし崩し的にコトが進みます。本稿は『壬生義士伝異聞』であって日本史の解説じゃないからこれ以降の細かい説明は省くけど、翌明治4年(1871年)4月には廃藩置県で全国は3府302県(ムチャクチャ多い!)に分割、このあと続々と県の統廃合が進んで最終的には明治22年(1889年)に3府42県に落ち着きます。

さて最後に、前のほうで廃藩置県に抵抗した…というより無駄な駄々こね騒動を起こした一部の不平元大名のことも触れておきましょう。
これは薩摩の島津久光のことです。
実際、版籍奉還から廃藩置県に至るまで彼は徹底的に反対し、コトがなった後は(すでに彼は新政府の諸政策に不満で薩摩へ戻っていたのですが)自邸の庭で派手に花火を打ち上げてウサ晴らしをした、と伝えられています。明治維新の立役者でもあり(あくまで名誉職ですけど)朝廷からは従三位左大臣にまで任ぜられた人物ではありましたが、頭の中は旧来の朱子学徒ゴリゴリの封建領主から抜けられなかったのでしょう。まあ、だからこそ廃藩置県の持つ危険性(封建社会から中央集権政府へと一気に移行する流れ)にいち早く勘づいていたともいえます。
極めて先見の明のあった優秀な部下たちに恵まれながら…彼にしてみれば、神輿として上手く祀り上げられただけの、正しく「飼い犬に手を噛まれた」心境だったのでしょう。そういえば(出自が怪しいネタなのですが)島津久光が徳川慶喜を追い落とした後、腹心の大久保利通に対して「ところでオレは、いつ将軍宣下を受けられるんだ?」と尋ねたという逸話が残っています。はたして大久保は、どう応えて彼を宥めたのでしょうね、ちょっと興味があります。

さて次回は『壬生義士伝』本編中にもたびたび登場するゼニ勘定…幕末から明治新政府にいたる財政事情と「呆れるほど奇跡的(!?)」な錬金術について探ってみましょう。

→次回
【金庫がカラなら「紙に書いて作れ」!】に続く
イラストカット
2022.04
『壬生義士伝』執筆状況

「居酒屋『角屋』の親父2」
執筆完了 現在鋭意編集作業中

配信開始は 6月3日(金曜日)より!

戻る TOP