巧の部屋 ながやす巧の漫画術

第14回
壬生への長い道 さらに遠い道

前回まで、ながやす先生が『壬生義士伝』連載に辿りつくまでの、打ち明け話をお伝えしてきました。「絶対にこれを描きたい!」と原作にほれ込んでしまったながやす先生は、さまざまな障害を乗り越えて、いよいよ『壬生義士伝』漫画化を開始! しかし予測通り(?)ここからが本当の試練の始まりでした。今回は、その先のお話です。

ながやす先生の熱意は高まり、講談社の編集部内でも、ながやす巧版『壬生義士伝』連載が決定! 原作の浅田次郎先生も即快諾…と、ここまでは話がとんとん拍子に進んだのですが、もちろんこの先には大変な問題がいくつも待ち構えていました。
最初にながやす先生が感じた「時代劇というジャンルの壁」そして「大正時代と幕末を行き来する」という複雑な物語構成の壁」を乗り越えたまではよかったのですが、実はこれに加えて、情熱だけでは片付かない厄介な「現実的な壁」も立ちふさがっていたのです。

本編カット

本コラムの最初にもお話した通り、ながやす先生はアシスタントを使わず、たった一人で漫画をお描きになっています。つまり、チームワークで週刊漫画を何本も掛け持ち連載することは、最初から不可能だったのです。
実は『ラブ・レター』『鉄道員(ぽっぽや)』と立て続けに浅田原作を漫画化した1999年当時、ながやす先生は講談社の週刊ヤングマガジンで一本、連載を持っていました。
それが大友克洋先生原作によるSF大作『沙流羅』なのですが、実はこの作品、大友先生の他の仕事の都合で、合計6回の中断期間がありました(実際、1990年に連載が開始されてから、この中断を経て、最終的には2004年に完結することになります)。先の浅田原作2本は、この原作待ちの時期を利用して描かれたものだったわけです。

『鉄道員』が掲載された時期、『沙流羅』はいよいよクライマックスの最終シリーズに差しかかっていましたから講談社編集部とながやす先生との間では、短編…というには余りにも大作なのですが…『鉄道員』の仕事が終わったら、大友先生から最終章の原作が到着するのを待って再び『沙流羅』連載を再開する、という段取りになっていました。
ちなみに、2003年5月にながやす先生が脱稿した『沙流羅』シリーズ最終章(「未来の街」)がヤングマガジンに掲載されるのは、2004年1号からのことです。

そしてながやす先生の『沙流羅』作業終了と入れ替わるように、2003年8月に『壬生義士伝』を週刊モーニングで連載することが決定しました。
ながやす先生がまず始めたのが、原作の上下巻を熟読…熟読というのは原作をそっくり書き写す「写経」のことですが…このあたりの事情は、以前に本コラムでもお話した通りです。
ところがいざ始めたものの、先生は読むたびに涙があふれて作業はなかなか進みません。こんな状態では冷静に作品を構成できないと思い、結局何度も『壬生義士伝』を読み返し(実は合計で7回、読み返されたとか)、涙が枯れた頃にようやく「写経」に取りかかることとなります。

そして「写経」によって物語全体が把握できた段階で、今度は必要な資料を書き出したり、ご自身でも方々に足を運んで資料収集したり、といった準備作業を続けていたことは前回お話した通りです。
だいたい、この下作業だけでおよそ1年。
実はこの時期、盛岡のラジオ局から講談社モーニング編集部の担当さんが取材を受けて「いまモーニングで『壬生義士伝』連載の準備をしています、準備が終わり次第執筆を始めますから、何年か後に連載開始できます」と話したそうです。聞いていた地元盛岡の方も、期待して下さったことでしょう…実際には、連載開始までもう少々待って頂くことになるのですが…。

そして2004年頃から2年間ほど、ながやす先生は取材旅行を行うことになります。
最初は夏の京都。そして浅田先生も同行されて盛岡へ。さらにもう一度大阪と京都、最後は冬景色の取材に冬の盛岡へと、取材を繰り返しました。
冬の盛岡取材では、「原敬の屋敷」が当時のまま残っているということで建物を描く参考にと足を伸ばしたものの、あまりの寒さに震え上がったとか。
幕末当時は、それこそ各部屋に暖房などなく、暖を取るのは囲炉裏だけだったわけで、ほとんど足の感覚もなくなったながやす先生(と、同行された奥様)は、まさに身を以て当時の登場人物たちの生活感覚を体感されたわけですね。

というわけで、この取材旅行で撮りためた写真はおよそ3千枚。ここからながやす先生は、本コラムでも紹介した、綿密な場面設定のスケッチを起こして行くことになるわけです。キチンと設定に起こしたもののほかに、ラフスケッチまで含めたら膨大な数になるけれど、これを全部クリンナップしていたら、それだけでさらに2年はかかる…これではいつまでたっても連載が開始できない!
ということで、この作業も最初の2章分に必要な資料だけ先にまとめて連載開始、となったようです。(2018年時点では、とりあえず四章斎藤一編と、その先の章までは手許にある資料だけでおおむね大丈夫、ですとか)

ご自身が「幕末や時代劇の知識に全く疎い」と語っていたながやす先生が、迫真の漫画版『壬生義士伝』の世界を描くまでの舞台裏には、こういった葛藤があったわけです。
もっとも、先生ご自身に言わせると、資料はそれでも集まりきらない、足りない、写真を撮りたくても当時の建物が現存していない、などなど不満だらけだそうですが。

次回
【斎藤一への序曲〜魅力は吉村を超える!?】に続く
戻る TOP